「パッション」をみました。

 先月号の本の紹介欄で「パッション」が上映されると紹介しましたが、実際この映画を見て、感じたことを報告しておきます。

 非常にマニアックな映画で理解できなかったとしかいえません。アメリカなどキリスト教の国では、この登場人物は誰だとか、また話の流れ、キリストの十字架での死とは何を意味しているのかは考える必要もないことでしょうが、クリスマスと結婚式程度でしかキリスト教を知らない日本では、話の筋も状況々々でシンボライズされているものが何を意味しているかはまず分からないでしょう。ましてや延々と続く残酷なシ−ンは、過激になっていく映画やドラマの中の暴力シ−ン、また食事中にテレビに映し出される血なまぐさいパレスチナやイラクでのテロ事件の映像などにより残酷な事件に対する感覚が麻痺してる現状に悪乗りした結果でしかないように思います。この状況をみてイエスの苦しみを追体験し、自分の信仰を確認するキリスト教信者が何人いるでしょうか。カトリック教会では、イエスの死刑宣告から墓に納められるまでの14の場面を想定してイエスの苦しみを追体験するという十字架の道行という祈りの方法がありますが、この映画はこれを映像化したと言ってしまえばそれまでですが、これがメル・ギブソン監督の感性であり、信仰のよりどころですよという信仰告白と理解すればいいのでしょう。ただ、これに同感を示す人がどれだけいるでしょうか。とはいいながらも、この映画は良かったという人もいるし、好き嫌いがはっきり分かれるようです。

 この映画で自分なりに感じたところがいくつかありました。一番大きな問題は執拗にユダヤの大祭司を前面に出しイエスの死に対する責任をユダヤ人に押し付けている反ユダヤ主義を強く感じたことです。現実にイエスの死の原因は宗教事犯ではなくロ−マに対する反逆罪であったでしょうから、福音書の記者達は、キリスト教がロ−マの世界に広まって行っていた状況から、自分たちの親分が、ユダヤ民衆のために立ち上がった一揆の首謀者だったため十字架上で死んだとは言いずらい状況があったはずですから、今ことさらにユダヤ人に責任を負わせる描写は問題があるのではないでしょうか。次にイエスの弟子たちはイエスを見捨ててしまい最後までイエスを支えたのは女性であったことを強調していることです。これは当然のことで福音書を読んで12使徒(ユダを除く)は大して重要な役割を負っていないように感じます。むしろ信仰心に乏しい、おろかな人間として描かれているのに対して、女性陣については、重要な箇所で登場してきていますし、イエスに対する信仰心も強く描かれています。十字架での死に立ち会ったのは女性ですし、復活後最初に現れたのは女性に対してでしたし・・・。マグダラのマリアが最も忠実な人間であったように記述されているのはイエスの教団で重要な地位を占めていたのでしょうか。イエスを知らないと三度言った使徒ペテロ以上に。

 それとイエスを取り囲む一人として悪魔を登場させていることはこの映画で評価できるところと考えています。この悪魔の登場を勝手に次のように解釈することができないかと考えました。神は、自分も認める正しい人間ヨブを悪魔との賭けの材料に使い苦しみを与えるというバカなことをしてしまいました。神はこのときの過ちを清算するために自分の一人子イエスの死を通して贖い、イエスの血によってヨブに代表される人間との関係を新たに契約し直したと考えればヨブの時以上に神と人間との関係はより親密なものになるし、神は引責辞任し、息子にその地位を譲ったと考えれば、旧約・新約の意味合いもすんなりと納得できるのではないかと思います。悪魔との関連で、ユダの扱いがありますが、この映画ではユダの自殺を描いています。マタイにその報告がありますが、他の福音書には記述がないので自殺したかどうか不明ですが、そんなことよりも、ユダが悪魔と手を結んでイエスを裏切ったのでしょうか。イエスはユダが自分を裏切ることを知っていましたし、当然、はるか昔からそう決められていたのでしょう。反ロ−マ抵抗運動の最初からの仲間で、ユダもイエスをキリストであることに賭け、イエスが死ぬことによって神の支配する世界が到来すると確信し、イエスの悲劇的な死の敵役としての役割を引き受け舞台から身を引いたのではないでしょうか。敵役がいないとキリスト教自体が成り立たなくなってしまいます。天国でイエスとユダは酒を酌み交わしているのではないかと思います。ならば悪魔は神にまんまと嵌められたことになりますし、ヨブのときの仇をとられたともいえます。また、悪魔を人間の心の弱さとみれば、人間としての本質と神の子としての本質をともに持っていたイエスの苦しみを表しているともいえます。その辺は、映画になったカザンザキスの小説「イエス最後の誘惑」が明確に描いています。

 聖書はイエスの伝記としての歴史書ではなく、神話化された物語ですから、福音書から歴史上の人物としてのイエスをメシア運動の指導者でロ−マへの反逆者あったとか、巡回霊能力者であったとかの説明をしたところで、自分の理論に併せて史料を収集して頭の中でつくりあげたものにしか過ぎません。イエスの死以外に確実な歴史的事実がどの程度、書かれているのでしょうか。

 キリスト教の信仰の原点は、「十字架の死と復活」ですから、十字架にかかるまでの人間としてのイエスをことさら考える必要はないように思います。邪馬台国論争と同じで、史料が乏しいため素人も参加して、上記のようにイエスを考えています。パゾリ−ニがマタイ福音書を映画化した「奇跡の丘」は、イエスの言葉を羅列しただけのようですが、イエスはロ−マへの反逆者としての先入観をもって福音書を読んでしまう私にも素直に受け入れることができる映画でした。

 神さまのことをつべこべ言っていると、ヨブと同じようにいわれてしまいそうです。

 「無知の言葉をもって、神のはかりごとを暗くするこの者はだれか。」(ヨブ記第38章2節)