途中帰国したあるタイ人技能実習生を想い出しながら

広島国際学院大学  崔博憲


 2015年、法務省は、国内に「不法残留」する外国人の数が1994年以来、21年ぶりに増加したと発表した。増加の一因は、急増した外国人技能実習生の失踪で、年末にはその数は6千人ほどになると見込まれている。この5年で約5倍だ。

 法務省は、スマートフォンなどを使って条件の良い職場を容易に探せるようになったことが実習生の失踪が急増している背景にあるとみている。その見立ては間違っていないだろう。以前は、実習生に携帯電話やパソコンの使用を禁止する受け入れ機関が少なくなかった。そうした条件を実習生に課していた会社の経営者にその理由を尋ねたら、「自分の眼が届かないところで勝手に余所と連絡をとって、他の職場の待遇がどうなっているとか、どこに行けば仕事があるとか、労働組合がどこにあるといったことを実習生が知るのは困る」と言っていた。でも、この数年の間で、ずいぶん様変わりした。最近、日本にやって来る実習生のほとんどは来日前からパソコンやスマートフォンに親しんでいる。そんな彼/彼女たちに、それらの使用を禁止するのは難しい。

 それに、そもそも自分の働く労働条件が他と比べてどの程度であるかを知り、より待遇の良いところに移りたいと思うのは、ごく普通のことだ。だが、外国人技能実習制度のミソは、そうしたごく普通のことを許さない点にある。

 この制度を利用して外国人を受け入れているのは、ほとんどが国内では労働力を十分に調達できない企業や団体、農家などだ。もし、国内労働者と同じように、実習生もどこで自分の労働力を売るかを自ら選択するという労働者としての基本的な権利を行使することになれば、実習先にとって彼/彼女たちは安定的な労働力でなくなってしまう。だから、この制度では、そうならないように国際貢献という実態とは乖離した看板を掲げて、実習生を決められた機関でしか働けないようにしているのだ。

 それゆえ実習生の多くは、職場の待遇や人間関係が悪くても我慢強く3年間耐え続ける。だが、どうしても我慢できずに、逃げ出して少しでもマシなところで働きたいと思っている実習生は少なくない。スマートフォンなどの通信機器の普及が実習生の失踪増加につながっているという法務省の見立ての後ろにはこうした構図がある。

 実習生の失踪増加のニュースに触れ、K県で農業実習生として働いていたタイ人のWさんを想い出した。来日前、送り出し機関からは、寮費や水光熱費は受け入れ農家が提供すると聞いていたが、実際には全て自腹で、それらを払うと月の手取りは5〜7万ほどしかなかった。さらに受け入れ農家が実習職種とはなっていない米作で忙しい時期は、畑作の仕事が極端に少なくなり月の手取りは、3万とか4万にまで落ち込む。こうした受け入れ機関の対応はもちろん脱法的なもので、明るみになれば受け入れ農家や組合は間違いなくペナルティーを受けることになる。僕と知り合ったのは、Wさんが空いた時間に農業実習生として他の農家で働くタイ人仲間を頼って手間賃を稼いだりしていたときだった。思っていたよりもはるかに安い給料、わずかの手間賃、それに円安。彼は、このままでは、来日のために送り出し機関に支払った金額(約60万円)の回収さえもままならないと言って、何の支援もしない送り出し機関や受け入れ機関に怒っていた。だが、どこかに訴えたとしても自分に益はないと考えていた彼が労働組合や労基署に相談に行くことなかった。

 そんなWさんは、ITを使いこなす今どきの若者で、タイから持ってきた自分のパソコンで毎夜インターネットをしていた。彼は、インターネットを使って、失踪した知り合いのタイ人と連絡をとり、いまどのような仕事に就いているのか、自分も逃げ出してそこに行けば働くことができるかといったことを尋ねてまわっていた。僕にも「いつ逃げようと思っている。逃げたら○○に行って□□の仕事をやる予定だが、賛成してくれるか?」などと聞くようになった。

 しかし、結局、Wさんは失踪せずに途中帰国した。それは、僕が失踪に賛成しなかったからではない。僕は賛成も反対もしなかった。彼が失踪しなかったのは、ほんの少しそれを押し留めるなにかがあっただけに過ぎない。あのとき彼は失踪してもおかしくなかった。

 失踪する実習生の急激な増加は、確かにスマートフォンやパソコンの使用と関係しているだろう。だが、そんなことよりも、実習生が自分の働く職場や他所の労働条件について知ることを問題視するような受け入れの在り方こそを問わなければならないはずだ。

 2年前に帰国したWさんは、いまイスラエルで働いている。そういえば、彼はインターネットで日本国内の働き口だけではなく、タイ人である自分がどの国に合法的に働きに行けるのか、どのような条件で働くことができるのかといったことも調べていた。タイ人にとってイスラエルへの出稼ぎは、実習生として働きに行くよりも初期費用がやや安く、また事前に長期にわたる語学研修を受ける必要もない。それに働ける機関も5年と日本より2年長い。Wさんからインターネットで届く知らせによれば、給料も日本より良いそうだ。

 イスラエルだけではない。近隣諸国でも韓国や台湾、シンガポールも外国人労働者の受け入れ政策を推し進めている。国境を越えた労働力の争奪が世界的に拡大するなか、実態を偽装する優越意識が刻まれた制度を使って外国から労働者の受け入れを続けることはできない。

 日本は、もういいかげんこうした現実に向き合わなければならない。すでに外国人なしに社会は成り立たなくなっているのだから。