ケラメイコス 〜 陶工の町 J 唐津市周辺−2

       前回は唐津焼の名実ともに実力者でありかつ気楽に訪れることの出来る隆太窯と小次郎窯について話しました。今回は丸顔・坊主頭の人気作家の土平窯から話を続けていきます。

【土平窯】
 先の二つの窯が山間にあるのに比べ、土平窯は山並みを見晴らす場所にあります。名護屋城からの眺望は太閤秀吉が玄界灘の向こうを睨むにふさわしい力強さを感じさせてくれますが、土平窯の眼前には雄大な風景が広がり、穏やかな風情を感じさせてくれます。それぞれの窯は自ずとその住人の人柄を表す場所に立地しているようです。

 初めて会ったのは20数年前で、開窯間もないころだったと思いますが、「生真面目で無口」との印象を持っていましたが、今では生真面目さはそのままで、饒舌ではないが、実力もつき、人気作家となった余裕からでしょうか、お客さんとの対応もそつなくこなしています。この窯を訪れる愉しみはやきものは勿論のこと、土平さんに会うことが目的となっています。この窯を訪れる人は皆そうだと思います。毎年、5月の連休には札幌からは数名の団体が来ていますし、皆さん土平さんと一緒に一杯飲むのが愉しみなのかもしれませんが・・・この場に出てくる土平さんの器が一番の楽しみとなっています。酔うことを知らない大酒のみの土平さんは、非常に楽しめる酒器や食器を造っています。一番うまいと思うのは、コ−ヒ−カップだと思っていますが、最近はあまり目にしないようです。また、粉引に掻き落としの魚の絵を描いた良い陶板(写真参照)を作成していましたが、これもずっと以前の一時期だけで製作されていません。数年前に「写し的なものはもう造らない」と言われていたので図柄については李朝の粉青沙器にみられる模様ですので止めたのでしょう。今回は昼食の時に使わせていただいた小ぶりの斑唐津のぐい呑を分けてもらってきましたが、新しい土で実験的に焼いてみたとのことでした。他の窯と違いぐい呑の形はバラエティ−にとんでおり、行く度に当たらしいものが目につきます。我が家には西岡小十先生の次に沢山あるのではないかと思います。

 土平窯には、登窯、穴釜が各一基あり、あとガスか灯油が何かの窯があります。作業場の一角が陳列室になっているので轆轤もあり、乾かしている作品も間じかに見ることもできて面白いのではないかと思います。

 以前、土平さんが個展で外出されている日に奥様とその友人たちの酒盛りに参加させていただいたとき、唐津地方一帯には昔岸岳城の波多氏が豊臣秀吉に滅ぼされた時に殺された人々の祟りがあり、その祟りをとく祈りをしてくれる人がいるという話を聴きました。これを唐津の人は「末孫(ばっそん)さんの祟り」と呼んでいるそうで、その場にいた人全てが実際に祟りがあると話していました。土平さんも以前お兄さんと陶土を取りに行ってこの祟りにあい二人とも数日寝込んだとのことでした。この祟りの話は、13代太郎右衛門さんも「秀吉や寺沢氏に対する岸岳残党の怨念は唐津周辺山野の無縁仏の積塔に残り、今日なお祟り話が伝わっている。」(「日本のやきもの4唐津」淡交社)書かれています。この時代の戦争の状況については大河ドラマで美化された状況しか思い浮かばないかもしれませんが、実際はこうした祟りがあっても当たり前の悲惨な状況が繰り広げられていたそうです。戦に勝つとその領民を切り殺したり、略奪したり、奴隷として海外に売り払ったりと凄まじい状況です。この辺りのことは藤木久志著「雑兵たちの戦場〜中世の傭兵と奴隷狩り」(朝日新聞社)に詳しく書かれています。秀吉の朝鮮出兵について、藤木氏は「極言すれば、秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギ−に、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国へ侵略に乗り出したというより、むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が現実に近いことになるだろう。」と述べられています。また茶の湯、陶芸、能楽等が完成された時代でもあり、もの凄いエネルギ−に充ちあふれていた時代だったのでしょう。唐津焼も、有田焼も、萩焼も、薩摩焼も、高取焼も秀吉の戦争によって各大名が拉致した陶工によって始められたものと改めて考えると窯の火のなかにさまざまな思いがうごめいているように感じられてきます。司馬遼太郎が「故郷忘じがたく候」で薩摩焼の沈寿官のことを書いています。