Drifting too far − 7
ユダの福音書

 「原典ユダの福音書」が発売されるのを心待ちにしていましたが、読んで、自分の考えていたこととは全く違っていたためガッカリしてしまいました。同時に、キリスト教の一般的な考え方の枠の中にきれいに納まっている自分に気づきました。全ての面においてそうなのでしょうが、既成概念にとらわれていないように考えていながらも、気が付かないうちにそうした桎梏にとらわれているのが人間なのかもしれません。批判しているからといって、決して体制の外から批判しているのではなく、命の心配がない社会においては、無意識のうちに批判する体制の中から排除されないことを前提に批判しているにすぎないのかもしれません。命にかかわる社会においてであればどうなんでしょうか。ナチス体制化における「白バラは散らず」の主人公達の活動がそうかもしれません。イエスの活動にしてもロ−マの支配下にあるユダヤ教社会の構成員としての教条化した既成概念に対する批判的な内部活動にすぎず、ユダヤ教を乗り越え新しい宗教を起そうとした活動ではなかったはずです。終末思想とロ−マからの独立運動の渦中にあった社会の中での活動でしかなく、史料もない現在からはどんな解釈も可能だといえます。また、福音書自体旧約聖書の予言的な言葉を寄せ集めてきてイエスの活動をその予言に従って神話として構成したものに過ぎないといえます。しかし、そこにはイエスとは違って新しい宗教を起すという強烈な意志、若しくは派閥間抗争があつたため今日のようなキリスト教として発展してきたといえます。ユダの福音書が書かれたのは2世紀ごろ(発見された写本は4世紀ごろのもの)と推測されていますから、イエスの時代とはかなり隔たった時代であり、形成されつつあったキリスト教をギリシア文化圏に広めるためにギリシア哲学にキリスト教的フレ−バ−を付けたもの、または、キリスト教の考えをギリシア的な考え方によって再構築しなおし、似ても似つかないものになってしまったといっていいように感じます。

 神と人間の間にデミウルゴスという造物主を置きこれらが世界を造り上げた、また、救済される人間は事前に決まっているようです。神の働きの摩訶不思議さを述べた神の前にヨブの時代にはただただひれ伏すだけでよかったのかもしれませんが、ギリシア哲学が広まっていた地中海世界に進出するに伴い何らかの合理的な理屈が必要になったための理論構成がこうしたグノ−シス(知恵)といわれるキリスト教の一派を生み出したのかもしれません。これらを異端として退けることを通してキリスト教が確立されていきました。グノ−シスが主流派となったのであれば素晴らしい史料が発見されたとなるのでしょうが、その逆ですから、大半のキリスト教徒は歯牙にもかけず、研究者だけが喜ぶだけとなりました。出版社も商売熱心ですね。まず、ユダの福音書が発見され、翻訳されるに至った経過を本にして儲け、次に「原典ユダの福音書」として発売し、さらにDVDまで発売されています。

 そうは云ってもユダがいなければキリスト教は完成しなかったとの考え方は変わりませんので、キリスト教の枠の中でそう考えておればいいのかと思います。「バカタレ」といわれ、ここから出て行けといわれたら「ごめんなさい。今後、こうした妄想はいたしません。」と言って済ませてもらいましょう。私にとってユダがどんな人間であったのかはどうでもいいことで、イエスの十字架での死が変化することはないのですから。

 ギリシア悲劇ではデウス・エクス・マキ−ナ「機械仕掛けの神」が最後に登場して一件落着となりますが、似たような仕掛けがイエスの十字架だったともいえます。ユダは十字架の悲劇を造り出し、他の弟子達はイエスなど知らないといって逃げ惑い、復活して目の前にいるイエスにも気が付かないのですから、お粗末な感じを抱かざるをえません。やはり生き残った者の勝ちなんですね。もし、十字架に架からずロ−マ兵との戦闘でイエスが死んだら神話ができにくくなってしまいますので、ユダはイエスと心が通じていたと考えていたほうが私にはすんなりと心に落ちてきます。それはイエスの十字架での死の直前にロ−マの桎梏から神がユダヤの民を救いに来るといったことですが、そうでないとなぜ裏切る人間を身近に置いておかなければいけなかったのでしょうか。少し時間的なずれと対象範囲が異なった現象が生じましたが、確かに、イエスの十字架の死を通じて世界は救われたのかもしれません。しかし、それにしても日本のキリスト教人口は少ない。だけどクリスマスは例外なく祝っていますのでみんな救われるのかもしれないですね。お寺さんの幼稚園でも祝ってますし、神様なんてわけの分からないものですから、根っこでは同じものを別な言葉で表現しているのでしょうか。

えくれしあ41号 h18. 8