Drifting too far − 5
祈り

 学生時代にたまたま京都の本屋さんで石仏ハイキング関係の本を見つけ、奈良を中心として、これに掲載されている石仏を見て歩いたことがあります。奈良市内の新薬師寺辺りから春日山を登っていく柳生街道、天理市から桜井市までの山の辺の道、浄瑠璃時と岩船寺のある当尾地区、生駒から大阪に向かう生駒街道など1日に7〜8時間歩き回っていました。当時は、まだ観光資源として認められておらず、訪ねる人も殆どおらず、整備もされていませんでしたので、探し当てるのに苦労しました。10年ほど前に当尾周辺を歩くと、あまりにも観光客が多いのと、石仏さんの周りが整備されすぎていてのんびり腰を下ろして眺めることなどできない状態でがっかりしました。それもそばまで車で乗り付けて来る状況ですから、石仏さんものんびりできなくなったのではないかと思います。

 学生時代には、田んぼのそばや岩肌に静かに佇んでおられ、周囲の風景に溶け込んでいましたし、付近の方がその前やお宮の前などを通りかかると一礼していかれるのを見ると、伽藍の中に鎮座している立派な仏様に念仏を唱えているのを見ても何も感じないのに、こうした生活の中に根ざした祈りを見ると何かを感じざるを得ませんでした。時代を経た伽藍の中の仏様やこのたび国宝になった平和記念聖堂など確かに厳かな雰囲気がありますし、そこでお祈りできることに満足感を覚えますが、オ−ム真理教のハリボテの仏様とどこが違うのでしょうか。そこに向かう気持ちがなければ何の価値もなく、自己満足でしかないように思います。祈りは、日曜日に教会に行ってするだけのものでもないし、改まってするようなものでもないかもしれません。しかし、何のために行うものなのでしょうか。何かしてもらいたいため、何かいいことがあったことに対して感謝するため、故人の冥福を祈るため・・。いろいろ理由はあるかもしれません。

 私にとって、「祈り」とは何か考えると全く分からなくなってしまいます。「祈り」が分からないというと不思議な顔をされた牧師さんもいらっしゃいましたが、信仰が生活の一部になった方には当たり前のことかもしれません。キリスト教に反発し、頭の中で理屈ばかり考えていた私にとっては、ある経験から「神は存在する」という状況に至った者にとって、教会も、信仰も、祈りも必要と感じていないため、「信仰」、特に「祈り」というものは今ひとつ理解できないものとしてあります。信仰は理屈を捏ね回すものではないし、それに付随する祈りにしてもこだわる必要はないのでしょう。祈りの目的には、将来の救いもあれば今の苦しみからの解放ということもあると思います。何かを期待して祈るのでしょう。しかし、自分の祈りとはそうした言葉を連ねるにしてもそれを期待しているのかと云うと必ずしもそうではないような気がします。勉強中に神父様から祈りについて話しを伺ったことから、教会に行ったときと、車に乗るときには祈りを唱えています。私にとって、祈りとはやらなければならないこと、注意しなければならないことに対する警鐘としてのものかもしれません。安全管理の一つの方法として指差確認やツ−ルボックス・ミィ−ティングがありますし、「ご安全に」を挨拶の言葉としている例もよくあります。こうした意味で祈りをとらえれば納得できると考えています。勉強をするにしてもスポ−ツするにしても適切な指導者について行うのが上達の早道だといえます。そこには当然一般的な法則や形やフォ−ムがあります。そうした意味においてミサや祈りの儀式を自然体で行える状態にすることが信仰を深めるあり方かもしれません。そうなれば祈りについてグズグズと考える必要もなくなってしまいます。ただ、形式論に陥らないように注意する必要はあるかもしれません。安全管理上一番怖いのが「慣れ」ではないでしょうか。惰性で形式的に祈るのではなく、その都度なにかに対して注意を喚起することがなければ「祈り」も意味がないといえます。信仰も神様任せでなく祈りに象徴される自助努力がなければ成り立たないのではないでしょうか。神と私の対決、鍔迫り合いを経たその向こうに本物の信仰や祈りがあるのかどうか分かりません。これも一つの登山道かもしれませんが、この考えを引きずりながら、おとなしく形を真似していってみようというのが今の私ですが、なかなか停泊出来ずに沖をただよっています。

えくれしあ39号 h18. 6