Drifting too far − 4
アッシジのフランシスコ−2

私にとってのフランシスコのイメ−ジはボロ雑巾であり、それはカザンザキスの小説からの思い描いたイメ−ジでしたが、学生時代から、いわしの頭を信仰しても、まともな生活が送られればそれが神としてもいいのではないかと考えていました。そうした意味合いにおいては、キリスト教だろうが仏教だろうが何でもいいということになりますが、身近なところにキリスト教があり、小説を書いていた先輩もおり、自分なりに小説を書くとすれば神とはどのようなイメ−ジかと考えてみました。何ヶ月ほったらかしにしておいたのか分かりませんが部屋の花瓶に枯れた花がそのままになっていましたのでこの枯れた花と付かず離れずの関係で私につきまとってきているキリスト教を併せ、またカラマゾフの兄弟の中で大審問官が「いまさらこの世に現れても困る。」とイエスの亡霊に対して云ったイメ−ジを重ね合わせて自分の少し後ろをとぼとぼと付いてきている年老いた老人のイメ−ジを描きました。

ギリシアの神々のように人間くさいと同時に絶対的な権力を持っている神もいいかもしれませんが、キリスト教の神は絶対的な力を持って人間を支配している存在でもないし、カトリックの信仰宣言、「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけらて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。 」のように信仰したからといって何かしてくれるものでもなく将来に向かっての「復活と永遠の命」がよりどころとなっています。弥勒菩薩は、56億7千万年後に悟りを開き、人間を救済するために修行中といいますから、キリスト教の神=弥勒菩薩と考えたら怒られそうですが・・。宗教は人間の生き方また身の処し方と考えれば特段こだわる必要も無いかもしれません。誰も見たこともないものを信じてもしょうがないとも言えるかもしれません。神は見えないかもしれませんが、良く霊が見えるという人がいます。私にも見えれば面白そうなのですが、ステ−キを食べているところで血まみれの霊が見えたら平然と食べることが出来そうもないので、見えなくて幸せなのかもしれません。

ただ、霊がいるのならば神もいて当たり前でしょうし、悪魔がいても不思議は無いと考えても間違いではないような気がします。ただ、私達には見えないかもしれませんが、神か何か分からないけれども触れ合うというか、経験するということは誰にでもあるといえます。それを偶然として処理するか神だと意識するかはかってでしょうが・・。洗礼を受けた時のいきさつは第1回の時書きましたが、偶然といえば偶然かも知りませんし、その神父様と最初をにあった時、私のイメ−ジの中にあるとぼとぼ付いてくる老人が現れたと感じていました。また、2歳か3歳だった子供のことで落ち込んでいた時、幼稚園に子供を送った帰り道、橋を渡っているとき、「明日、何を着よう、なにを食べようとなぜ思い煩うのか。明日は明日に任せればいい。」との言葉が浮かび、心が晴れた経験があります。私にとってこれは偶然でもなんでもない神に接したことと理解しています。この時以来、神は信じる、信じないといったものではなく、「神は存在しているもの。」となりました。この経験が良かったのか、悪かったのか、この日以来、心配することを止めたというか、出来なくなったというか、人が死のうが、病気になろうが関係なくなってしまいました。心配したり、悲しんだりしてもどうにもなる者でもないし、いつかは死んでしまうのだし・・。子供は私が死んだら悲しむのは分かっていますが、その逆はどうなのか自分でも分かりません。実験するわけにも行きませんし・・。死んだら神様がいるから心配する必要がないということでしょうか。

こんな話はどうでもいいのですが、偶然は本当に偶然なのでしょうか。なにを行うにしても自分がいろいろなアンテナを立てて、非常に弱い電波も受信できるような工夫というか気持ちをもっていれば偶然を沢山拾うことが出来ると思います。偶然と呼ぶか、摂理と呼ぶかはそれぞれが決めればいいことかもしれませんが、ダボハゼ的に可能な限り関心の巾を広げていけば大きな力というか、不思議な偶然を体験することが出来ると思います。これを書き始めることとなったサインは、「えくれしあ」の記事のためなのか、何か別なことを感じたためなのか、頭の中を整理しろということなんでしょうか?

えくれしあ38号 h18. 5