Drifting too far − 36

99匹の羊と1匹の羊


 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」(ルカ15-4〜7)

 誰でも知っていると言ってもいい聖書の中の言葉です。99人の罪の無い人達を多少危険にさらしても、神さまは罪の真っただ中にいるその一人を救いに行く行為は素晴らしい愛の行いであり、当然それを私たちも見習う必要があると言うのが普通に行われる説明かと思います。しかしその説明は正しいのでしょうか。羊の群れは常時オオカミに狙らわれています。しかしオオカミは羊が憎いわけでもないし、殺し尽くしこの辺りを支配する目的もありません。ただ空腹が満たされればいいはずです。一匹をそのままにしておけばその一匹の犠牲だけで済むでしょう。探しに行けば、羊飼いが番をしている時以上の羊が傷つき、殺されることは確実です。自然界では「空腹が満たされればよい」という生態系を維持する見えない力が働いています。しかし私たちの世界ではそうした力は働かず、限りなく相手の命をしゃぶり尽くそうとする欲望しかありません。そうした状況であっても99匹を放り出して一匹を救うのが愛の行為として理解すべきでしょうか。一匹を救うことを通して将来にわたって数限りなく犠牲者として供給されてくる羊たちの命を守るために、99匹を犠牲にすることこそ愛の行為とは言えないでしょうか。迷い出た一匹の羊を探しに行くことが愛の行為として賛美されるような綺麗ごとで済まないのが私たち人間の世界です。技能実習生の問題や非正規労働者又ブラックバイトと呼ばれる不正が私たちの目につかないところで数限りなく行われています。この99匹の羊の話しは技能実習生の問題にこれまで係っている中で意識しないまでも常に燻っていた問題でした。福岡の農家で働いている技能実習生の問題で雇用主の農家や協同組合との交渉の中で、「ビニールハウスを建てた借金があるので未払の残業代全額を支払う余力はない。」と言われれば満足がいかなくてもある程度の所で妥協せざるを得ません。こうした彼らの対応をみていて「何時までももぐら叩きをしていても仕方がない。」との思いを強くしました。今、目の前にいる100匹すべてが人間の飯のタネとして檻の中に入れられています。この中の一匹が自分の命を守るために勇気を振り絞り危険を冒して救済を求めて逃げてきています。この羊たちを目の前にして私たちはどの様な行動をとるのが正しいのでしょうか。
 農家の話しに戻ると、ある協同組合の下、農家で働いている技能実習生が150名ほど、またその地域には他の協同組合に所属する技能実習生がその数倍はいると推測されます。そのなかの3名が残業代の問題等で相談に来ました(えくれしあ第156号で報告)。私たちはこの3名の問題では満足が行く回答ではなかったものの一応解決することができました。しかしこの協同組合で行われている残業代の不正、住居費での搾取が改善されたわけではありません。そうした中、同じ協同組合の別の農家で働く技能実習生からまた相談が来ました。そこは日曜日しか休みが無く、残業代はほとんど支払われていないようです。当然有給休暇の行使もできない状況です。以前実習生が残業代や有給休暇について質問すると大声で怒鳴られ、それ以降誰も口に出すことができなくなったそうです。こうした不法行為の真っただ中に恐怖感を持って日々を過ごしている技能実習生達がいるのを知っていながら何もできず、救いを求めてきた一匹の羊を救うことだけに力を注いでいます。当然私たちは無意識のうちに相談に来ていない150名の技能実習生達を帰国させないように妥協点を探らざるを得ないのが現実です。150人は犠牲にしてもこの1人と将来にわたってやって来る無数の技能実習生の権利を確保できる対応方法に転換していかなければならないのではと痛切に思うようになっています。それでもそこにある危険には目を背けて1匹の救済だけに向かうべきなのでしょうか。このお話は私たち支援する側がサラ金の取り立て屋と何ら変わることがないことに気づくようにと警鐘を鳴らしているのかもしれません。