Drifting too far − 35

「十字架とリンチの木」J.H.コ−ン著


 カントリーミュージック好きにとってはクリスチャンであるか否かを問わず宗教的な意味合いを持った歌を意味は分からないま、また意識もしないまま自然に聞いています。ブルースや黒人霊歌はジャンルが違うとしても私にとってはカントリーの流れの中で聞き流してきていました。しかし今年、「ゴスペルの暗号〜秘密組織 地下鉄道」を読み、「それでも夜は明ける」という自由人から拉致され12年間奴隷された映画を見て黒人奴隷の抱えた問題やブルースやゴスペルに込められた思いに関心が高まっていたところに目についたのが4月に出たこの本でした。アメリカは黒人を大統領に選びながらも、ミズリー州で黒人男性が警察官に射殺されたことから暴動が起こっているように人種差別の根の深さを意識させられます。
 「十字架とリンチの木は、ほぼ二千年の間分離されてきた。一つはキリスト教信仰の普遍的象徴であり、もう一つはアメリカにおける黒人抑圧の典型的象徴である。両者とも死の象徴でありながら一方は希望と救いのメッセージを代表しており、他方は白人優越主義によるそのメッセージの否定を表示している。十字架上のイエスの死と、街灯柱や木に首を吊られて殺された何千という黒人男女の死の間には、明らかな類似性」がある。「彼らは神の子を再び十字架につけている」(ヘブライ6.6)とはアメリカでは黒人奴隷を指している。「神は十字架上のイエスとともにおられ、サタンと死がイエスの意味について最終的決定をすることを拒否されたゆえに、その神は米国のすべてのリンチ行為にも隣在されたのである。神は白人たちが頼るもののない罪なき黒人になしたことを見ておられて、彼らの苦難を御自身の苦難となさった。かくして神はリンチされた黒人の死体を、再度十字架につけられたキリストの体に変えられた。白人暴徒が一人の黒人をリンチする度に、彼らはイエスをリンチしたのである。リンチの木はアメリカにおける十字架である。それゆえアメリカのキリスト者たちは、自分たちがわれわれのただ中おける十字架につけられた死体においてのみイエスに会うことができるということを理解する時に、初めて真の十字架のつまずきに出会うであろう。」と著者は述べています。ミズリー州で警察官に撃ち殺された黒人男性はリンチの木に架かった黒人奴隷そのものであり、この問題を私たちの目の前で十字架につけられ血にまみれたイエスとして認識するところから信仰が成り立つとの神学です。
 また、イエスの十字架とリンチの木との象徴的関連性を訴え続けてきたものの一つにとしてブルースや黒人霊歌を多数引用されており私にとってはそれらの意味するところ、また新しい曲と出会う切っ掛けともなりました。そうした一つに、ビリー・ホリイが歌ったという「奇妙な果実」があります。この歌に歌われた人たちが「奇妙な果実」を「十字架からぶら下がった果実」と同じものと感じることで救いを得たように私たちは目の前にあるさまざまな問題を「自分のこととして感じることができるか」との踏絵として理解する必要があるといえます。

   南部の木には奇妙な果実がなる、葉には血を滴らせ、根にも血を滴らせ、南部の風に揺らいでいる黒い死体、
     ポプラの木から吊るされている奇妙な果実。
   輝かしい南部ののどかな景色、膨らんだ目とゆがんだ口、甘く強烈な木蓮の香り、
     その時突然発する焼かれた肉体の臭い!
   ここにはカラスがついばむ果実があり、雨に打たれ、風がなめる、それを太陽が腐らせ、木から落ちていく、
     ここには奇妙な、苦い果実がある。

 平穏な生活を送っている私たちはこうした問題を第三者的な立場で観念的に非を唱えることだけで満足していないでしょうか。綺麗ごとの世界に安住し、嫌な部分は意識して見ないで済ませていないでしょうか。日本でも部落問題を始めとしてさまざまな差別があり、対策が取られています。しかし外国人労働者、特に日系人と技能実習生に対する扱いはまさに国策としての差別制度といえます。そうした中で苦しんでいる外国人は当にリンチの木に架けられる恐怖に震える黒人奴隷と変わるところがなく、キリスト者にとっては日本版リンチの木の視点から考えてみる必要があるのではないでしょうか。しかしそれ以前に一人の人間として、行動を起こす起こさないにかかわらず関心を向けなければならない問題の一つといえます。