Drifting too far − 33

信仰・社会・共感


 先日、地元の新聞に私の活動についての記事が掲載されました。「洗心」という欄で信仰に基づき何らかの行動をしている人が対象のようですが、あいにく購読している新聞が違いどのような記事が過去に掲載されたのか分かりません。ただ外国人労働者の問題が報道されることは願ってもないことであっても信仰に基づく行動となると少し筋違いではないかとも思いましたが、カトリックの信者であることには間違いないし、教会を活動の場としていることも確かなので了承しました。
 これより少し前からメル友と何時の間にか信仰についての問題をやり取りしていることもあり、再度自分のことを考え直してみるのもいいのかと思い取材に付き合っているとなかなかこちらの思いが伝わらないこともありましたが、掲載された記事を見るとよくまとまっていました。こうした欄の記事ですから信仰面が強く意識されているのはやむを得ないと思います。信仰とは何ンなのか、祈りとは何かは私にとって良くわからないというか、頭の中ではある程度分かっても心の中にはすんなりと落ち込んでいません。またカトリックの信者とは言っても肩先がカトリックの傘の中に入っている程度に過ぎません。プロテスタントの無教会派が自分の考え方と近いといえますが、ただ神と私の関係だけでは独りよがりになってしまいますし、味気無さも感じます。カトリックのようなバチカンを頂点とした組織とそこに形作られた信仰と祈りの形にはそれなりに意味があります。茶の湯の世界もおなじ所作を繰り返すことによって自然体として動けるようになることを目指して修行するのでしょうし、運動にしても基本的な形を覚えるのが上達の早道だといえます。私自身「明日何を食べよう、なにを着ようとなぜ思い煩うのか。明日の日は明日に任せればよい。今日の苦労はきょう一日で十分である。」の言葉が頭に浮かんだ瞬間から神は信じるものではなく「神はいる。」となってしまい、改めて洗礼を受けたり、信仰を持つということは意味がなくなり、心配をすることから解放されました。
 外国人労働者の問題にしても信仰に基づいて取り組んでいるわけではありません。善行を積めば天国に行けるなどの妄想もサラサラありません。聖書の文句にあり、教会で合言葉のように言われる「いと小さきものにしたことは私にしてくれたことだ。」を実践しているわけでもありませんし、私自身この言葉は好きではありません。私たちは信仰を持って生きる前に社会の構成員として生きています。当然この社会はきれいごとがまかり通る世界ではありませんし、当然利害がもとになってさまざまな問題が起こってきます。マザー・テレサは修道女として信仰に基づいて行動を起こしたのでしょうか。それ以前に目の前の問題をどうにかしなければとの気持ちだったのではないでしょうか。ただそうした気付きは摂理として信仰に基づいたものとして語られたのではないでしょうか。私自身もこれまで節目々々に出会った偶然を摂理と理解しています。偶然でも構いませんが、自分の感性の感度を上げれば必要な情報はキャッチしやすくなります。そうした情報が神からのメッセージと理解しています。しかしそうしたことを信仰というきれいごとの世界で理解する前に人間として生きている現場での問題として考えています。信仰は心の中の問題であり、社会生活の問題とは別な次元の問題です。神が何かしてくれるという期待は一切持っていませんが、祈りや信仰は自分の弱さを強める力にはなるのは事実です。自分が行動を起こさない限り何も変わらないのが現実です。
 外国人労働者問題もずるずると深みにはまるにつれ、様々な軋轢から「なぜこんなことをしているのか。」との思いも大きくなってきました。しかし、どうにかしなければいけない現実が目の前にあります。こうした本の中の世界でしかなかったどろどろした現実を前にして「人の不幸を楽しんでいる。」と笑い話にせざるをえない複雑な心持にならざるを得ません。ではなぜ止めないのかといわれると「目の前に問題があるから。」としか答えようがありません。この記事を見た方から教会の方に寄付金が送られてきました。手紙に仏教徒とありましたが、現実の苦しみに対する共感できる感性を育んでこられた方と思います。私が逆の立場だったらこうしたことはできないと思います。ただただ黙礼することしかできません。