Drifting too far − 32 

命−4  ダンボールの棺



 久しぶりに呉市内から 二河の川沿いを通って焼山に行きました。その日は雨模様で山間には霧も出て、しっとりとした美しい紅葉を楽しむことができました。今の時期を人間の一生にたとえると定年退職して住むところを変える少し前の時期、たそがれ時に向かう前ごろかもしれません。私自身もそうした頃合に差し掛かっているのでしょうが、未だに迷い続けています。少しは岸辺に近づいたかとは思っているととんでもない話で何時の間にか、頑張れば頑張るほど知らぬ間に真っ暗な陸も見えない海の中を漂っている自分に気付きました。こうした感傷に浸っているのも束の間のことで向かっている先は呉市の斎場でした。前日には母方の叔父が無くなったとの電話があり、少し前には、従姉妹のご主人が亡くなったことを知らされました。またこの1週間ほど後に母が亡くなりました。必ず死ぬのが人間ですから人の生き死にはあまり心が動かされることもありませんでした。この日も同じで、「呉に行きますか。」と神父さまから自宅に電話があったからで、それも親族の方の問題を聞くためのものでしかありませんでしたが、ふらふらといったものでしたから、ある面では美術館に行くのと同じようなものでしかありませんでした。道を探しながら辿り着くと、かなり遅れて着いたため、斎場の人も気が気ではなかったのでしょうか、入り口まで出てこられており、直ぐに行くべき場所を示してくれました。
 ご両親も火葬に付される子どもに会うのはこれが初めてだったかどうか知りませんが、車から降りると、台の上に50cm×40cm程度の白いダンボールが置かれていました。なぜかよく分かりませんが私が真っ先にそこに案内されました。係りの人がダンボールを開け、中の亡骸を見せてくれましたが、ガーゼがかかっておりよく分からないままでしたが、母親がガーゼを取り、顔を眺め始めたので、一緒に眺めさせていただきました。透明感のある赤黒い顔が見えました。実にきれいな、清々しい、清浄無垢な表情で、笑みがあるでもなく、無表情でもなく、何か心を洗われるような顔でした。これほど美しいものを見たことはありませんでしたし、大きな感動を覚えると共に、いかに自分が穢れきっているのかということに気がつかされました。どのような気持ちからでしょうか、涙ぐんでしまいました。神様か、天使様か、仏様か分かりませんが、そうした崇高さに打たれたのかもしれません。娑婆の世界に生れ落ちることも無く22週前後で一生を終えた嬰児でした。
 私にとってこの経験を通じて色々なことを考えさせられることとなりました。それにしても、明確な目的も無く、怠惰な日々を送っている自分に対して嫌悪感に苛まれている今の自分が情けなくなってしまいながら、ビル・モンローの“A Beautiful Life”が聞こえてきました。私の人生は残り少ない。助けを必要とする人たちのためにベストを尽くそう。人生の夕日は沈もうとしている。私がおこなったことに向き合う審判の日はあと少し。と歌っています。「助けを必要とする人たちのためにベストを尽くそう。」この言葉は一つの問題が解決すれば、「もう二度とやらない。」、「何のためにやっているのか。」との思いに駆られて仕舞う私にとって、「自己満足ではないのか。」、「人によく思われたいのか。」という言葉として跳ね返ってきます。こうした私にとって、この日の出来事は神様から送っていただいた大きなプレゼントであったのではないかと感じています。神様は何かしてくれるとか、奇蹟を起こしてくれるとかは思ってもいませんが、ただ、何かのヒントは送ってくれています。それに気付くかどうかはこちらの感性の問題だと思っていますのでこの日の出来事は将にこれだと感じています。ただ、活力が出ないのは・・?”Life's evening sun is sinking low A few more days and I must go”ですか?
You Tubeで聞いてみてください。
A Beautiful Life  http://www.youtube.com/watch?v=fWXaTqfdXok&feature=related
With body and soul  http://www.youtube.com/watch?v=P7WBbWDmbq0