Drifting too far − 31 

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 3月の終りにエリザベト音大で「ナザレのイエスをめぐって」という文化講演会がありました。これは現在の教皇ヨゼフ・ラツインガーの書いた「ナザレのイエス」という本についての話でした。開放の神学を潰したのがラツィンガーと聞いていたのでカトリック臭い本だろうと思っていましたが、読んでみると非常にまともな中庸を得た内容で関心を持って読んでいる途中でしたので目新しい話はありませんでしたが、お二人とも続刊でイエスの幼年時代をどのように扱うのかに興味があると話されておられました。面白い話ではあったのですが歴史上のイエスの研究動向とのかかわりで話されることが無かったので今一つ物足りなさを感じてしまいました。人間としてのイエスという面からは30年近く前に読んだ田川健三の「イエスという男」の印象が強烈過ぎて他の本が物足りなく感じていました。今、6年前に出版された第2版を読んでいるとついつい引き込まれてしまいますが、年をとったためか語り口の激しさがうるさく感じられてしまいます。しかし外国人労働者の問題などを知れば知るほどきれいごとではすまないのが私たちの生きている社会ですから、社会通念に捉われず発生している問題の状況に応じた現実から考えていく必要があります。
 外国人労働者から寄せられる問題を聞いて対応する行政機関を教えるだけでは問題の解決にはなりませんし、教会のミサに出て神父様の話に頷いて満足しているわけにも行かなくなってしまいます。何をすればいいのか、何ができるのか・・・。一つ解決すると「もうこんな面倒くさいことは何もしない。」と思いながらも電話がかかってくるとすぐに反応してしまっています。動き出すと「どのように進めるか。」ということしか考えていません。困っている相手には悪いのですが、私にとっては面白くて仕方が無いというか、興味本位といっていいのかもしれません。本で読んでいた世界が目の前にあり自分の思うままに進めていくことができるので人の不幸を楽しんでいるというのが現実です。しかし楽しいのは解決するまでで、会社から解決金をもらった後はなにかしら嫌な気持ちしか残りません。またそれに対する報酬も気持ちを暗くするものでしかありません。こうした気持ちになる理由の一つに正しいことをしたのかという疑問があります。会社がまともでないことをやっているのも事実であり、会社が過ちを反省し再度問題を起こさない気持ちがあるのか、また労働者の言い分が信用できるのか、研修生たちが会社に世話になってきたというのも事実ですから・・。「信用できるのか?」これだけは相手の心の中のことですから信じるしかないのでしょう。また、会社が前向きに対応してくれば問題はありませんがそうでない場合、こちらの対応の仕方一つで事業運営にダメージを与えてしいます。あくどい会社であればこちらも身の危険を感じる場合が出てくるかもしれません。
 ただ興味本位だけでこうしたことは出来ないかもしれません。相手の置かれた状況に共感を感じているから出来るのかもしれません。残業代をもらえないためや解雇されたため可哀想だからということではありません。可哀想と思うのであればそれで終りでしょう。せいぜい寄付して終りでしかありません。相手のおかれた立場に共感し、自分のこととして感じることが出来なければ上から目線での対応に陥りかねません。私の場合は、時間と多少の知識があったため、一寸した切っ掛けで関係をもちダラダラと続けているだけにすぎません。人それぞれ生活上のしがらみと格闘しているので全ての人に協力していただくことは出来ない相談です。私たちがこうしたことを2年間やってきていても「力になれることがあるか。」と声を掛けられたことはありませんでした。可哀想な外国人たちと対岸の火事でしかないのかもしれません。
 マルチン・ルーサー・キングはイエスは「汝の敵を愛せよ。」といったが、「汝の敵を好きになれ。」とは言っていないことは素晴らしいことだといっています。またマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無関心だ。」といっています。相手に関心を持つこと、相手の置かれている状況を自分のこととして感じること、共感することが、愛だといえるのかもしれません。困っている人になにかすることは必要かもしれませんがそれが愛の行為だとすると少し違うのではないでしょうか。もし自分が相手の立場だったら人から施されるということはどのような気持ちになるでしょうか。「ここでは働けない者が食っていけるゆとりはない。働けない者が食えば、働ける仲間が飢えっちまう。だから、自分の死期を察すると、仲間のため食べるのをやめるんだ」(レンタルチャイルドP258)という世界もあります。これはインドの路上で生活する人たちの世界です。豊な世界で生活している私たちにとって愛だ共感だといったところで日々社会から疎外され、死の淵で生きている人々に対してはただただ沈黙しかありません。