Drifting too far − 3
アッシジのフランシスコ−1

 カトリックでは洗礼を受けるに当たって霊名をつけます。過去に聖人として列せられた人にあやかって自由に選ぶということになります。日本人の殉教者も沢山聖人に列せられており、中でも長崎駅前の西坂の丘で殉教した26人の聖人についてはご存知の方も多いでしょう。この聖人の名を霊名とされている方もいます。いずれにしてもその聖人の人柄また信仰にあやかるということですから、洗礼名を考える段階で皆さん自分の霊名である聖人に対し明確なイメ−ジを描かれていることでしょう。

 私自身、霊名はどうするかといわれて、息が詰まりました。そんなことは考えたことも無いし、人にあやかってどうかしようという気持ちの持ち合わせもありませんでしたので、仕方なしに、はるか昔、宗教哲学の授業の中に出てきた聖アンセルムスというスコラ哲学者が頭の中に残っていたのでこの名前にしようと思っていました。しかし復活祭が近づくにつれ、学者の名前も面白みが無いと感じていたところアッシジのフランシスコの名前が浮かびました。周りも見えないほど自分の信仰にのめり込み、周りからは道化者のようにみられ、自分の蒔いて育てた果実を弟子達に簒奪され、見捨てられそして惨めさの中でボロボロになって死んでいくボロ雑巾のイメ−ジでした。惨めであったというよりは大いに満足していたと思いますが・・。イエスと同じような人生を辿ったといえます。自分の有様とは全く雲泥の差があり比較するのが失礼にあたりますが、何かしらこのボロ雑巾のイメ−ジに親近感を覚えアッシジのフランシスコとしました。

 皆さんは、アッシジのフランシスコという名前をご存知でしたか?「ブラザ−・サン シスタ−・ム−ン 」という映画が若いころのフランシスコを描いていますので見られた方も多いと思います。ここでは快活な若者として描かれていたようですが、私がボロ雑巾のイメ−ジを得たのは、映画を見られた方も多いかと思いますが、「キリスト最後の誘惑」の原作者でもあるギリシアの小説家カザンザキスの「アッシジの貧者」という小説からでした。この小説は、今まで持っていたフランシスコのイメ−ジを全く壊すものでしたし、そこには個人の信仰の論理と組織の論理の衝突が描かれています。その軋轢に引き裂かれボロボロになってしまうフランシスコがいます。

 フランシスコには自分が行っている活動を組織化する意思は全く無く、ただキリストが説いた清貧の道を徹底的に生きること、また自分を慕って集まってきた弟子たちも当然同じような行動を取ってくれるものと思っていたようです。しかし、人が沢山集まれば当然にそうした者たちを養うための資金も必要になりますし、まとめて行くための組織も必要になってきます。悪く言えば、彼を慕って来た者であっても、能力と野心のある弟子は組織づくりと権力の掌握へと動く。しかし、そうしなければ沢山の仲間の生活を維持していけないし、指導も行えなくなるので必然の結果といえます。

 私自身も、出来上がったものを維持していくよりは、新しく立ち上げるほうに関心がある点、またお金への執着は無いあたりでは同じかも知りません。とは言っても人並み程度ですが、物への執着心にはかなり強いものがあるので、「寄るな」と言われてしまいそうです。そう思いながらもボロ布のほずれた一筋に触れさせていただいています。その反対の手では古いやきものの陶片を弄んでいるので救いようがありませんが・・・。

 ただ、このボロ雑巾的イメ−ジは学生時代から、漠然と神に対してなのか、イエスに対してなのか分かりませんが、ずっと感じていたことイメ−ジでした。

「アシジの貧者」 ニコス・カザンツァキ 清水茂訳 みすず書房 3000円
えくれしあ37号 h18. 4