Drifting too far − 28 

矛盾 〜 うそと真実

 先月号で紹介されていたアメージングメグレースを10月に見た2本の映画の中で聴きました。偶然といってしまえばそれまでですが、何かの働きがあったのでしょうか。10月末で切れる無料券が2枚あり、人にあげるか、面白そうな映画があれば見ようとパソコンを覗くと「私の中のあなた」という映画が目につきました。白血病の長女の命を長らえさせるため臓器移植100%の適合性のある子供を遺伝子操作によって生み、臍帯血移植を始め、リンパ球、骨髄移植などさせてきていました。しかし腎臓移植が必要となったところで、「もう姉のために臓器提供はしたくない。」とこの子が両親を告訴するというものでした。これだけみて遺伝子操作や移植の息の詰まりそうな問題が扱われているのかと思い関心をもちました。ところが「死とは何か」「家族の愛とは何か」が中心で何かしらほのぼのとした目頭が熱くなる映画でした。この映画の中にある埋葬の場面でバグパイプによるアメージング・グレイスが流れていました。
 後一つは笑福亭鶴瓶が演じる寒村の医師を中心にした「Dear Doctor」という映画の中でした。のどかな雰囲気に合った間延びした感じのハーモニカによる演奏で最初は何か分からないまま聞いていましたが、気になって映画よりもそちらに気をとられているとアメージング・グレイスと気がつきました。(http://deardoctor.jp/の右上のskipをクリックすると聞くことができます。)
 これらの映画の中にこの歌が挿入されているのは、私たちが神、神ではなくても何か大きなものの愛に包まれて生きていることを象徴するためではないかと感じました。私達が生きていく上で何が大切なのか。キリスト教で言う「いと小さきものにしたことは私にしたことだ。」のいと小さきもの・隣人との関係を抜きにしては考えられないといえます。「私の中のあなた」は姉の命か自分の命か、腎臓の一つをとっても別に問題はないといってしまえばそれまでです。そこまでして人の命を救う必要があるのか。それよりも大切なものがあるのではないかというのがこの映画のメッセージだといえます。裁判の中で明らかにされるのは、この裁判自体、姉が腎臓移植を望まず、病気と闘うことよりも家族とともに最期の短い時間を楽しく過したいと妹に伝えたことから起こったものでした。長女の命を救うため家族が犠牲になるべきだとの母親の思いは当然かも知れません。聖書の中に「明日何を食べよう。何を着ようとなぜ思い煩うのか。明日は明日に任せておけばよい。」との言葉があります。一つのことに集中するとそれ以外の問題は見えなくなってしまいます。一歩下がって、命とは何か、今家族にとって何をすべきかを考えると別なものが見えてくるのではないでしょうか。
 一方、「Dear Doctor」は、嘘は必ずしも悪いことではないし、嘘と知りながらもそれを受け入れる必要もあることと伴に医療と命の問題を扱っています。この映画の中心は笑福亭鶴瓶と末期がんの八千草薫との関係です。八千草薫の変調に気づき、ペンライトを意識的に忘れ、夜訪問して心を通わせ、検査を受けいれさせます。八千草薫自身それとなくがんと気づいており、二人の間だけの秘密として夜に訪れてはケアしますが、医師である八千草薫の娘が帰省して来て、薬の異常さに気づいて診療所を訪れることで笑福亭鶴瓶はこれまでの嘘で固めた贋医者生活を解消するためというよりは八千草薫が残り少ない人生を娘とともに過せるようその場から逃走します。
 この二つの映画に共通するのは表面的にはいいのか悪いのかの対立ですが、その意味するところはそうした何れがよいのかといった問題ではなく「どのようにあるべきか」ということだといえます。外国人の労働問題でも見られるように法律的に正しいのか間違っているのかではなく、人としてのあり方を問われているといえます。法律を守ることだけであれば、法の裏をくぐり抜けることは簡単に出来ます。善悪を超えた人としてのあり方が問われています。クリスチャンであることを辞めた宗教学者岸本英夫は無神論者として死後の世界は無い、「人間は、一日々々をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつづけなければならない。私は、生命をよく生きるという立場から、死は、生命に対する「別れのとき」と考えるようになった。立派に最後の別れができるように、平生から、心の準備を怠らないように努めるのである。」と述べています。これらの映画の訴えている「自分の気持ちのあり方、良く生きること」と通じるとともに信仰の有無に関わらずこれが人間にとって真実ではないでしょうか。神の前に正しくあり得るのか、いと小さき者の隣人になりえるのか、そんなことを考えても偽善という仮面を被るか被らないかの違いでしか無いのかもしれません。神について考えることは必要かもしれません。しかしそれ以上に「生命をよく生きる」ことを考えることが必要ではないでしょうか。「神はいる。」ただそれだけで十分です。