Drifting too far − 27 

悪魔

 今年の5月ごろ「天使と悪魔」という映画が上映されました。バチカンでの教皇選挙に集まった枢機卿連続殺人事件が題材でその犯人は前教皇の側近であったというお話でした。この犯人が最後まで思慮深い天使のような存在として描かれ、土壇場で悪魔に変身するのですが、キリスト教にとって、アダムとイブのりんごの話以来、悪魔とはこのように神に敵対する存在と理解されています。神の存在に気づいた人は沢山いても見た人はいないように悪魔も同じように実体を持たない存在で、ヘビなどの姿をとるのは物語の中だけのことといえます。神を否定する人には悪魔も魑魅魍魎も存在せず、目に見えるものしか存在せず、死んでしまえば化学反応の結果水や土に返ってしまうのが生き物といえるでしょうが、生き物にはDNAレベルでは全世界規模で共鳴しあう何かがあるような気がしています。新しい発明がなされるとき意外と同じような時代に、全く関係のない地域で相前後して発明がなされることもあります。虫の知らせといったものもあります。日本の軍国主義であった時代、ナチスのドイツ、毛沢東語録を振り回した中国などそれぞれの時代において宣伝とか洗脳だけでそうした時代意識が共有されるのではなく多くの人のこころの底で共振しあって、雁字搦めにしてしまう目に見えない意識が働いていると考えなければ理解し得ないのではないでしょうか。こうしたまともではない情況は悪魔の働きによるものであり、逆にローマから遠く離れた地にまで信仰が広がるのは神の摂理とみられます。
 神がいるのかいないのかは別として私達をまともな考え方から逸脱させようとする意識が働くのは誰でも経験していることだといえます。こうした後ろ向きな意識の変化が悪魔の働きと理解できます。何か一生懸命やっているうちにこころのなかに疑問や割り切れない感情が起こってきます。それに引きづられながらもよたよたと活動している自分が常にいます。暇になったり、疲れたときに心の中に悪魔が入り込んでこうした感情を引き起こします。一方では、日々の生活に窮していながらも迷いも無く悪魔が寄り付けない生活送っている人もいますし、裕福に暮らしながらも無意識の内に悪魔に取り込まれている人も沢山います。普通の生活をし、特別悩みもなく、信仰に満ちた生活を送っていながらも心の片隅に悪魔が住み、きれいごとの世界を演出しているということもあります。常に悪魔に攻撃されている私達ですが、一方では生き方を改めるようにとの微弱な神からの電波も届いています。それに気づき、こころを改めることができるように私達は鋭敏な感性を育てていくよう努力し続けていなければなりません。
 悪魔に支配された生活の中で神からのメッセージを受け続け、ついに神の摂理の世界に気づき聖職者に転進したのが「アメイジング・グレイス」の作者ジョン・ニュートンでした。彼の人生を見ると将に悪魔と手を組んだ生活の中に様々な神からのメッセージが届いています。それを感じ取りながらも悪魔の下に立ち返る彼がいます。怠惰な生活は私達の本性かもしれません。そこに付け込んで来る悪魔の誘いは甘く具体的なものですが、一方神からのメッセージは自分自身が細心の注意を払っていなければ見逃してしまうほどのものでしかありません。それらに気が付くこともなく全うな生活を送っている人も少なくはないでしょうが、何も気づかず生活しているのが現状かもしれません。アンテナを沢山立て、微弱な電波をキャッチできるようなるにはどうすればいいのでしょうか。ハンク・ウィリアムスは夜道に迷った中で町の光を見た時の喜びを神を見出した喜びにたとえ「I saw the light」という歌をつくりました。もう闇もため息もない世界、ただひたすら町の光を目指していく気持ちは誰にでも似たような経験あると思います。岸辺を遠く離れた所を漂う生活を卒業しようと思いながら悪魔のささやきに常に迷わされている自分には最後の日に天使の白い羽に包まれて永遠の命の家に入ることは難しいとあきらめ指をくわえているのも寂しい限りですが現実を直視できなければ救いもあり得ないのかもしれません。