Drifting too far − 26 

神の沈黙

 私達の日常において神とは何なのか考えることはまずないでしょう。毎週教会でミサに与ってもそうでしょう。ただ惰性で、友達と会えるからそれが目的で毎週教会に行っているだけの人間には神どころか信仰自体真面目に考えることがないのが現実です。そのためかポケットに入れていたロザリオをどこかで落としてしまい、また鞄につけているメダイも外れてなくなってしまいました。お守りのつもりで持っているものですから自分を何かの危険から救ってくれたのか、愛想を付かされたのか分かりませんが出かけるときポケットに入れるという惰性に流れていた自分への警告なのかもしれません。


 少しは神について考えろというシグナルかもしれません。外国人労働者の問題などなぜ起こすのかと神に言いたいのですが、言ったところで何も解決はえられません。しかしトラブルに巻き込まれれば神に救いを求めることになると思います。だけど奇跡が起こることはありません。神にいくら祈っても解決はできませんが心の救いまた慰めは得られるといえます。どのようなときでも、自分の子が死んだときでも、原爆が投下され地獄がもたらされたときでも神は沈黙して何も行動を起こすことはありません。ただ心の救いや慰めのため側に佇んでいるだけに過ぎません。しかし私達が救いを求める熱意を神から周りの社会に向けたとすれば奇跡が起こる可能性があります。自分から行動を起こすというわずかな方向転換で世界は変わってきます。当然その熱意が強くなければ自分に必要な情報や支援者を得ることはできません。熱意が強ければ自分に押し寄せる様々な情報の中から必要なものに対する感度が高くなります。こうした情況が一つの信仰のあり方ではないかと思いますし、神の沈黙も理解することができます。神は沈黙しているのではなく祈りに集中させることでアンテナの感度を高めさせ自分の能力で解決の糸口を見つけさせてくれます。お金に対する執着心の強い人も、外国人労働者を奴隷としてどのように搾取して利益を上げるかに猛進している人たちもお金儲けへの、また搾取への信仰心が人一倍強いから工夫を重ねて成果を挙げているのだといえます。ただ方向が正しいのかどうかの問題だけです。単純化して考えれば神=信仰の構造はこのようなものと考ええていいのではないでしょうか。ただ構造は似ていても中身は全く異なっています。当然現世での利益を求めているのではなく次元の異なった世界への思いが原動力としてあります。こうした仕組みがあることからキリシタンの殉教も、イスラム教徒の自爆テロもおこなわれてきたと考えてもいいのかもしれません。良いとか悪いとかの次元を超越した世界の問題としかいえません。地球上に生きる一生物としてどのように生きるか一人ひとりが責任を持った生き方をすればいいのですが、夢物語にしか過ぎず、最後の日を目指して人類は進んでいるのは間違いないでしょうし、それが自然界の定めだろうといえます。


 先日テレビをつけると版画家の棟方志功にインタビューしている古い放送が流れていました。なにとは無しに見ていると「全てを裸にしないと信仰は出てこない」、「在るものをまっぱだかにしたものが信仰」と話していました。洋画家を志し、評価もされず失意の内にあった彼が版画の道に転向し成功します。版画に没頭し、世間的な評価を得たい、より素晴らしい作品を目指すという気持ちを忘れ、自分の思いに浮かんだ作品をつくり上げることに没頭する中で芸術を探求していく中で信仰のあり方に気づいた言葉と考えます。一芸に秀でた人にしかわからない境地というか経験があるのではないかと思います。作品を仕上げるとき構想はあるはずですが、ただ構想に従って板を削っていっても形だけの作品に過ぎず人を感動させるまでには至らないといえます。そこには何か分からない不思議な力が働いているのかもしれません。同じ物を毎日無数に造り続けている職人さんも長い年月の間には何も意識せずに轆轤や筆を動かしています。そうした中に美を見出したのが柳宗悦の民芸運動でした。その対極に芸実性を求めて努力している人たちも居ます。天分に恵まれた人は神品と呼ばれるものを造りだします。それぞれの天分に応じた人並みはずれた努力がなされるからこそ人の心に響くものができるのでしょう。自分の能力に応じて一生懸命努力することの中に神がいるのかもしれません。