Drifting too far − 25 

「朗読者」

 映画を見る目的は楽しい時間を持つことではないかと思います。子供のころ父が映画好き、それも西部劇が好きでよく連れて行かれていました。手に汗を握り、わくわくしながら見ていました。大学のころは新宿にあったアートシアターで見る映画は好き嫌いは別としてそれなりに分かるものでした。しかし、このたび見たこの「朗読者」という映画は全くといっていいほどなにが言いたいのか理解できませんでした。帰りに本を買って読んでみても同じでした。著者はこの本は2度読んでもらいたいといっているそうです。インパクトの強い事件に気をとられて登場人物の機微を見落としてしまうからだそうです。確かにインパクトの強い事件が三つ取り上げられ、三つの章に分けられています。第1章は親子ほど年の違う女と子供のセックスにおぼれた日々、第2章は理由も告げず突然消えた女が、大学の法学部でナチスの戦争犯罪を研究している主人公の前に戦争犯罪人として法廷に現れます。第3章では終身刑で服役中の女にかなりな年月が経過した後いろいろな本をテープに吹き込んで送り続け、釈放後の生活まで手配しながら最後の日に自殺してしまう女の話となっています。
 この本のテーマの一つはユダヤ人収容所での戦争犯罪の問題があります。ドイツ人にとっては忘れることの出来ない大きな負の遺産です。収容所で看守としての任務また移送中に宿泊させていた教会が空襲で火事となったにもかかわらず教会の扉の鍵を開けて救助しなかったことに対する罪で裁判が進行します。未だにユダヤ人虐殺の当事者が告発されている現状は原爆で未だに苦しんでいる人たちがいることに通じるかもしれません。この本には、こうした過去の戦争犯罪が通奏低音としてあり、第2章で前面に噴出してきます。ドイツのことは分かりませんが、日本についてみると非戦闘員であった多数の市民が原子爆弾で地獄に投げ込まれ、未だに苦しみを引きずってきています。ただ原子爆弾投下を被害者意識の下に問題にするだけでいいのかとの疑問があります。日本は、満州・中国・東南アジア諸国に進出し、これらの地域を地獄に陥れたのも事実です。こうした負の部分を今の私達が過去のこととして無視することは出来ないといえます。私の家族親戚にも原爆で苦しんでいる人もいますし、戦死した人もいます。自分に都合のいいことばかり主張し、都合の悪いことは過去の事としてしまうのが人間かもしれません。ハンナが終身刑に処せられたのも一人の人間の罪というよりもドイツ人全員の罪と考えるべきなのかもしれません。大きな時代のうねりの中で個人の責任などあるのかといえますが、誰かが責任を取らねば一件落着とはなりません。イエスが人類の罪を一身に背負って十字架に掛かったのと同じ理屈です。
 こうした歴史と個人の関係がこの本の主題ではないのでしょうか。人間の原罪の問題といってもいいのかもしれません。ハンナをイエスに見立てたスケープゴートと考えると3つの章立てと3つの愛との関係が思い浮かんできました。そのように捉えると自分なりにこの映画が分かるような気がしてきました。この3つの愛とはエロス、フィリアそしてアガペーです。第1章は二人が肉欲に耽るエロスの世界であり、第2章はハンナが被告となった裁判が中心になります。傍聴しながらも名乗り出る勇気も無く苦しむ主人公の感情は友人間の愛フィリアとして捉えることが出来るかもしれません。そして裁判では自己保身を図る他の被告と違い当時自分達の置かれていた状況を客観的に述べるハンナ。教会での空襲に関する報告書が問題になり、他の被告達は一斉にハンナが書いたと指差しますが、ハンナが否定します。しかし検事が筆跡鑑定を主張するとハンナは一転自分が書いたと証言を翻し、一身に罪を負うことになります。その理由は自分が文盲であることを知られたくなかったからとされています。第1章で主人公に本の朗読をさせてきたのも、収容所で体の弱い女の子に朗読をさせてきたのも文盲のためでした。なぜ自分が重い罪を負うのも厭わず認める気になったのかプライドのためだけとすると無理があるのではないでしょうか。第3章で主人公が、本を朗読し、テープに吹き込んで名前も告げずハンナに送り続ける行為は見返りを期待せず一方的に与え続ける愛アガペーとして捕らえることが出来ますし、同時に、ハンナの変身も理解できます。三つの愛とイエスの十字架との絡み合いがこの小説の主題となります。ハンナの文盲自体が物言わぬ子羊であり、人間の原罪を現しているのではないでしょうか。再読すれば又違った面が見えてくるかもしれませんが、独断と偏見でいいでしょう。