Drifting too far − 23

生きる 〜 「7つの贈り物」、「オーストラリア」

 ここのところ時々映画を見ますが、「レッドクリフ」のように楽しんで終わりというものもあれば、メル・ギブソンが製作した「パッション」のように考えさせられる映画もあります。また、先日見た「7つの贈り物」は感動を感じながらも土壇場で複雑な思いというか不快感を感じさせられてしまいました。
 映画を見てどのような感想を持つかは人それぞれでいいのでしょうが、どのような映画であろうと共通するのは人間であることを楽しむ、生きることを感じることかもしれません。しかし、生きることとは何かと考えると答えは闇の中で、人それぞれがこれまで生きてきた社会の倫理観またその人の価値観などから答えが異なってくるといえます。しかし、人それぞれ自分の思いを実現するために生きているとはいっても、当然そこには一定の制約があるはずです。「天」という考え方もそうした人としての倫理観をあらわしているものだといえます。そうしたものは時代とともに変化していくのは当然としても、それなりに人間というもののあり方を逸脱することは出来ないはずです。
 香川県立中央病院で受精卵の取り違え事故が発生しました。不妊に悩む人にとってこうした医療技術の進歩は朗報かもしれません。また他人に子供を生んでもらうということまでおこなわれており、インドでは出産請負で生計を立てている貧困層もあるといいます。クローン動植物の問題もあります。こうした命を操る技術が進歩していくのは時代の流れとして当然のことかもしれません。しかしこうした恩恵を受けている人は裕福な人たちで、貧しい人たちは他人の子供を生み、臓器を提供したりと命の沙汰も金次第となってしまいます。ならば健康保険適用とすればいいのかというと問題点のすり替えとなってしまいます。問題なのは、そこまでして子供を授からなければならないのか、移植をしてまで命を守らなければならないのかという問題ではないでしょうか。
 自然に生きて、自然に死ぬのが自然界の掟ですが、医療技術の進歩との兼ね合いはどの辺にあるのでしょうか。輸血や角膜移植などの医療技術の進歩の延長線上に他人による出産や臓器移植があります。輸血はまさに命に係わる問題ですがこれを認めないという宗教もありますが、社会的通念として認められているといえます。「7つの贈り物」は、自分の命を犠牲にしてまで心臓を提供する臓器提供マニアの物語であり、自分が角膜を提供した男性と心臓を提供した女性を結ばせようとも企んでいます。将来的にはこうしたマニアの出現も考えられるのかもしれませんが、けして感動の物語では片付けられない話です。
 こうした現実とは対照的な映画が「オーストラリア」でした。オーストラリアの自然、西部劇を思わせる牛追いの場面、アボリジニの習俗、日本軍が攻撃する場面などを見ていると、何もない大陸に文明を持ち込み、開発していく人間の努力と欲望など、人間の歴史を凝縮しており、自然と人間の関係、人間の絆、生き方を強く考えさせられる壮大な映画でした。人間は自然から離れては生きていけないと改めて感じました。「明日何を食べよう、何を着ようと思い思い煩うのか。明日の日は明日に任せればいい。」(聖書)、「一大事と申すは、今日ただ今の心なり」(道鏡恵端禅師)のように今を大事に生きることが人間の生き方なのかもしれません。洋の東西を問わず、自然の中に生きていた時代を忘れ文明の進歩につれて自然とは人間に合わせて造りかえるものとの傲慢さの結果かもしれません。無心論者で宗教学者岸本英夫は「私は、一個の人間として、もっぱらどうすれば「よく生きる」ことができるかということを考えている。しかし、そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。一日々々をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつづけなければならない。私は、生命をよく生きるという立場から、死は、生命に対する「別れのとき」と考えるようになった。立派に最後の別れができるように、平生から、心の準備を怠らないように努めるのである。」といっています。宗教の有無また宗派を超えての結論は「今を生きること」ですが、人間は煩悩の塊ですから、無いものねだりも止むを得ないのかもしれません。どのような生き方をしても、いずれは人間の世代が終わり、次の生物の世代がくるのが自然の摂理でしょうから早いか、遅いかの違いだけかもしれません。しかしそれでも・・。