Drifting too far − 22

「キリストの涙」または十字架

 十字架は耶蘇坊主の門下生にとっては家庭の必需品かもしれませんので、私も買うのではなく造ってもらいましたが、我が家に最初に来た十字架は、洗礼を受けたときに先輩からいただいたものです。古い十字架を復刻したような平べったい10cm角程度のものです。あまり関心も持たないまま目に付かないところにおいていました。先日、「キリストの涙」という小説を読んだ影響からか、十字架を飾ることにしました。これに向かって祈るのが目的ではないのですが、少しは関心を持たねばというか、インターネット・オークションで買ったまま埃まみれで放置している十字架が我が家に来て以来、冷遇されているため、災いの元になっているのではないかとの思いもありました。一部焦げたような感じもあり、火事にあったのかどうかわかりませんが、美術品として素晴らしいものですが、お御堂に信仰の道具として飾られていたのかも知れないし、来歴も不明な立派な十字架を個人で持つのもどうかとの疑問もあります。大量生産されたものでなく、ブロンズ彫刻の専門家の手になるものではないかと考えていますが、未だによく分かりません。日本で出来たものかどうかも不明です。幅1cmにも満たない薄い板の十字架に貼り付けられたどっしりしたブロンズの耶蘇坊主を眺めると、どのような飾られ方をしていたのか、どのように飾れば良いのかと悩んでしまいます。
 耶蘇坊主は人間の罪を背負って十字架に付けられたとされていますが、「私は、あの世ではなく、この地上に神の国を造りたかっただけで、十字架に付けられて死にたくは無かった、弟子達が私のことを理解せず、大事な時に、寝てばかりいたから、やむなく十字架に付かざるを得なかった。」というのが「キリストの涙」という小説のテーマとなっています。確かに、このような解釈をすればユダヤ独立の闘士として殺され、後に弟子達が十字架での贖罪の論理立てをしてキリスト教として発展させていったと考えることもでき、私にとってはすんなり理解できる内容なのですが、なんらの史料も無い話であり、歴史の世界と信仰の世界の話を混同しても意味が無い話といえます。私にとっての問題は、キリスト教の神を受け入れるかどうかだけの話で、聖書に書かれている内容も、それを扱う神学どうでもいいことになります。組織が出来れば、組織の論理が働いてきます。カトリック、正教会、聖公会、プロテスタントそのほかいろいろなキリスト教の一派があります。聖書を聖典としていればなんでもいいのではないでしょうか。私にとって、カトリックの典礼を通じて耶蘇教の信仰がどのようなものか感じればそれでいいといえます。「神様を信じますか。」といわれても、私は「信じます。」と答えることが出来ません。「聖書を勉強して神がいると思ったからから信じるのか。」、「神とは何者か分からないまま信じるのか。」洗礼を受けた人たちに聞いてみたいところです。ただ、私にとって、神を信じる、信じないはどうでもいいことでて、「神はいる。」ただそれだけで満足しています。20年ほど前、ある時、聖書のことばが浮かんだだけのことですが、それで「神はいる。」と分かりました。それから15年ほどたって、たまたま洗礼を受ける機会に巡り会い、それを決めた日に幾つかのことが重なって起きました。そうはいっても「いまさら洗礼。」との気持ちが強かったためか、洗礼を受けてなんの感激もなく、ただ淡々と儀式に従っただけで、なんら変わったことはありませんでした。ただ変わったのは、その後離婚し、子供の世話をしなければいけなくなったことと、今年、「キリストの涙」を読んで十字架に関心を持ち、先の十字架の始末に悩みだしたことぐらいでしょう。20年前のことから、のんびりと時間をかけながら何かに動かされてきたのかもしれません。
 「キリストの涙」に子供時代の耶蘇坊主が出てきて、シスターと協力して必死になって地球に刺さった十字架を抜き、ボール遊びを楽しそうにしている場面があります。全てのしがらみを取り去ってしまえばこれほど楽しいことは無いかも知れません。そうなれたら、趣味三昧の生活は面白くもなさそうだし、何もないところで、一人、悠々自適?、何も考えずに”Do lord remember me”とつぶやいて朽ち果てていくのが理想と思うような心境になってきました。少々風邪気味で疲れてきてからでしょうか。