Drifting too far − 20

「いと小さきもの」雑感

 教会でよく聞く言葉に「いと小さき者」というのがあります。これは、聖書の中の「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25章45節) に基づいており、社会の底辺での生活を余儀なくされた社会的な弱者に対して良くしてあげることはキリストに対してするのと同じなのだから慈善行為は積極的にしましょうということで使われていると思います。図式化してみると、キリストの下に私たちがいてそして一番下に「いと小さき者」がいるということになります。要するに私たちは天にいる神様に顔を向けた状態で、すなわち救いが得られることを条件に「いと小さき者」に施しをしているということになるといえます。
 最近読み直した「釜ケ崎と福音」(本田哲郎著 岩波書店)の扉を開くと一枚の版画が印刷されています。この版画はニューヨークの公園で行われている炊き出しを受けるために並んでいる7人の人を描いています。その下には、「小さくされた者の側に立つ神…! サービスする側にではなく、サービスを受けねばならない側に、主はおられる。」と記されているように、真ん中に並んでいる人はイエスその人です。本来、イエスはサービスを受ける側には居ないはずです。しかし、版画の作者も著者もイエスこそ差別を受けていた人そのものだと発想の転換をしています。上から手を差し伸べるのではなく、下から支えるという考え方、施しではなく、一緒に活動するということが必要だといえます。ボランティアを長年されてきた方にとっては当たり前の話でしょう。
 車いすプレーヤーと健常者がダブルスを組んで試合をするアップダウンテニス大会を長年やってきましたが、最初は、どのようにすればよいのか分からず、「車いすは押してあげなければいけない、緩い、打ちやすいボールを打たなければいけない、相手のいないところに打ってはいけない。」などと考えていました。しかし試合は勝ち負けを決めるものです。そんな気持ちで試合をしてもお互いに面白くは無いはずです。負ければラケットをたたき折りたい気持ちにならなければいけません。そこに次の試合に向けての練習があり、楽しさが生まれてくるといえます。彼らも遠慮してその辺りのことはなかなか口にすることはありませんでしたが、回を重ねて親しくなっていくにつれ「遠慮せずに打ち込めばいい。」という場面も出てきました。私自身そうしたことが分かるのに時間がかかりました。今では、初めて参加される方が戸惑わないように、開会式のとき、「遠慮はしないこと。打つところが無かったらぶっつけても構わない。」と話します。車いすプレーヤーは聖書的な発想をすれば「いと小さき者」に該当します。そして相手のためと考えたボールを打つことは相手を見下した行為と言うことになります。皆さんも経験が無いでしょうか。試合にたくさん出ている間には、上手な人から遊ばれることがあります。レベルが違うから練習させてやろうと思われているのだと思いますが、こちらは必死でやっているのに馬鹿にされたように感じて不愉快な気持ちになったことが何度もあります。試合である以上、お互いが目いっぱい頑張るべきではないでしょうか。また、ホームレスに対する炊き出し等のボランティアの場合も同じだといえます。「いと小さき者」に対する自己満足の行為のようにも思えます。「釜ケ崎と福音」で本田神父は緊急避難的に意味があるだけで根本的な問題解決にはならないと述べています。自分で稼いで食事が出来るように支援する必要があるといっています。雇用の場を提供する努力、例えば、教会構内の清掃など働く場を提供し、私たちが下から支える努力をすること、共に汗を流すことがボランティアという言葉が本来意味していることではないでしょうか。
 先日、フィリピン人の会で労働関係の話をさせていただきました。確かに、労働基準法を知ることは自分がいかに差別的な取り扱いをされてきたかということに気づく切っ掛けにはなります。また、そこで出された現実的問題に法律的な回答をしたところで何の解決にもなりません。大勢を前にした話の場という限界があります。話をしただけでは、屋根の上にあげて梯子をはずす行為となりますし、また炊き出しをして終わりということと同じことになってしまいます。本当に必要なのはその会が終わってから解決方法を考えていくことになります。そうした責任を負うことが聖書の言葉の意味するところだと考えています。「いと小さき者」という言葉が聖書に使われているのはこうしたことを説明するための方便であり、私たちは、差別的な言葉として使うべきではないといえます。心の中の文脈で使うだけでいい。言葉として出た瞬間に偽善者となってしまいます。「いと小さき者」へということを意識することなく行動することができなければ駄目なのではないでしょうか。