Drifting too far − 18
長崎観光から殉教とは

<IMG alt=  前回の「風の天主堂」を読んだ影響からではないのですが、4月半ばに長崎に行ってきました。3年ほど前、神の島教会を訪れた際、近くの海岸に磁器の破片が沢山あり、時間がなく二つ三つ拾って帰りました。磨耗が進んでおり古いものかどうかよく分からず再度確認してみたいと思っていたところに後輩から定年退職後の相談がしたいので何時ごろ来るのかと電話があり、重い腰をがあがりました。昔住んでいた町なので特別観光することもないのですが、神の島教会、26聖人の碑と教会、<IMG alt=稲佐山の外人墓地、長崎歴史文化博物館とたまたま途中にあった教会遺跡を見学しただけなのが心残りで、またゆっくり時間を取っていかなければと思っています。長崎は居心地のいい町ですし、おいしい食べ物はいろいろあるので一通り食べたいし・・。(写真は慶応2年創業の吉宗の蒸し寿司と茶碗蒸し)<IMG alt=
 今回は稲佐山の外人墓地を訪ねる目的もありました。日本二十六聖人記念聖堂におられる結城了悟神父さまが「海原のかなた―長崎外国人墓地の碑(いしぶみ)」(女子パウロ会1365円)(あまぞんの中古本では1円から送料 340円)で紹介されているお墓の碑文を確認してみたいと思い行ってみたら墓地は国別に区画が分かれており、西洋人の区画は入り口には鍵がかかっておりは入れなかったのが残念でした。<IMG alt=<IMG alt=国際墓地の名のとおり、日本、中国、オランダやロシアなどの区画に分かれていました。長崎港を望む眺めも素晴らしいし、桜もきれいでした。
 異国の地で無くなられた方の墓碑銘には何かしら心に響くものがあります。結城了悟神父さまはスペイン人で日本に帰化され、キリシタン史の研究者として業績を残されています。ザビエルを始めとした宣教師達は言葉も分からず、命の危険を犯して渡来されたパッションには言葉もありません。パッションという言葉は神学的にはキリストの受難を指す言葉ですが、メルギブソン監督の映画「パッション」でこのことを知るまでは、通常用語としての情熱としてしか理解していませんでした。情熱が度を越せば受難となってしまいます。世界中に派遣され命を落とした宣教師は数え切れませんし、26聖人のように信仰を守るために命を落とした人も数知れません。今年の11月24日長崎で「ペトロ岐部と187殉教者」(広島では己斐で殉教した3名が含まれています。キリシタン殉教の碑もあります。)の列福式があります。マザー・テレサと同じ聖人の一歩手前の福者の地位に叙せられることです。マザー・テレサの場合はいいのですが、信仰のために命を落とすことが素晴らしいことなのか・・。カトリックでは洗礼を受けるとき聖人にあやかって霊名をつけます。殉教した聖人の名前を霊名とされている方もいますが、ぼろ雑巾みたいな私にふさわしいイメージのある聖人はアッシジのフランシスコでした。キリシタン時代には棄教した人もいれば、表面的には踏絵を踏んで信仰を守った人たちも沢山いたと思います。隠れキリシタンはそうですし、こうした組織もなく人知れず信仰を守った人たちもいるはずです。そうした人たちの信仰を転びキリシタンとして切捨てていいのでしょうか?大浦天主堂にプチジャン神父を訪ねてきたのは隠れキリシタンでした。自分が死ぬことで捕まっている仲間の命が守られるならばまだ理解も出来ます。殉教を美化する一方でカトリックは自殺を禁止しています。生き抜いて信仰を守るという立場から考えると、殉教は消極的な自殺、キリストの受難にオーバーラップさせた美学と考えることは出来ないでしょうか。積極的に殉教を美化してしまうと特攻隊も同じですし、三島由紀夫のように自分の美学に殉ずる行為も正当化されてしまうし・・、延命治療を徹底的に受けるのがいいのか、無駄な治療を止めて自然に命を終わるのがいいのかにも繋がってくるし・・。私の神父様は神から授かった命を徹底的に生き抜くために意識がなくても延命治療を受けたいと話されていました。正解はないのかもしれません。「こうしたことを考えること自体、信仰がない証拠」といわれれば困りながらも、「信仰の前に私は命を持った人間です。」と答えざるを得ません。ペトロ岐部の生き様を見て感動もしますし、自分のだらしなさに身をつまされる思いも感じます。長崎の教会を巡ってそこに根付いている信仰を感じることで素直な心を取り返さなければなりませんね。