Drifting too far − 16
スフィンクスの謎

 スフィンクスはギザのピラミッドの隣に伏せている身体はライオンで顔は人間という架空の生き物です。古代地中海世界の各地にいたようですが、エジプトでは死者を守る良い存在だったようです。しかし、ギリシア世界では人間に害悪を及ぼす存在として出てきます。傍を通る人間に「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足の生き物は何か。」との謎を出し、答えられなければ殺していました。テーベの町がスフィンクスによって災厄を蒙っていた時、旅人として通りかかったオイディプスがこの謎を解き、「人間だ。」と正解したことから、スフィンクスは崖から飛び降りて死んでしまいました。スフィンクスが死んだことでテーベの町は救われ、オイディプスは王妃と結婚し、王としてテーベの町を支配することになりますが、これが大きな災いの元となりました。オイディプスは、「自分の父を殺し、母親と交わる」というアポロンの神託から逃れるため父母(養父母だと知らされていなかった)の元を離れ放浪の旅に出ている途中のことでした。自分の運命から逃れようと、悪戦苦闘しながらも、運命の女神の手からは逃れることが出来ませんでした。テーベの王となり暫らくしてテーベの町に災厄がまた訪れ、自分が元凶とは何も知らないまま、その原因を必死になってオイディプスは詮索させていました。ギリシアの神は第三世代に属するゼウスが支配していますが、運命はモイラという女神が司っていました。人間がどのように足掻こうと決まった運命を変えることは出来ません。運命から逃れよう、変えようとするのが人間でしょうが、スフィンクスの謎のように、赤ちゃんのときの手足を使って歩くことから、成長するに伴い、二本足になり、衰えると杖をついて三本足になるという定めからも逃げることは出来ません。しかし、衰えるということを認めるのは難しいものです。分かっていても受け入れられないし、あるときその旨宣言されると、衝撃を受けてしまわざるを得ません。足が動かなくなるのが先か、死ぬのが先かとなれば、嫌々ながらでも。スフィンクスが言うように三本足になることも必要なのかもしれません。
 ヨブもそうでした。何の罪もないのに、悪魔と賭けをした神様の玩具として子供も財産も無くし、挙句の果てに、体中に出来物を与えられ、町の人々から嘲られる存在となったヨブは神を恨むこともありませんでしたが、このような災厄を受けたのはヨブに落ち度があったからだと三人の友人から諭されたことに対し、「自分は正しい。」神を呼び出し裁判をしたいと反駁します。そこに、「神の経綸を暗くする者は誰か」と神の声が響きます。自然界の仕組みをお前は凡て見てきたのか、と聞かれても答えられるわけはありません。神様の謀を人は知るすべもありません。ご無理ごもっともとして受け入れざるを得ません。オイディプスは運命を悟り、自分の目を潰し、テーベの町を去り、行方知れずとなりました。一方、ヨブは自分の非を認めて神の前にひれ伏すことによって義とされ、財産を二倍にして返され、子供たちも与えられました。人間が生きていく限り、こうした不条理な現象を受け入れざるを得ないのでしょうが、なかなか受け入れがたい思いがします。オイディプスのように最初から分かって運命を避けようとしても避けられないのなら、何も分からないまま生きている私たちはどうすればいいのでしょうか。「なるようになる。」とは割り切るわけにはいきません。オイディプスのように自分の人生と格闘しなければいけませんし、ヨブのように与えられた人生を受け入れ、そこに神様のメッセージを感じ取らなければいけないのかもしれません。足が痛くなったのは運命なのか、悪魔が神様の承認を得てちょっかいを出しているのか・・。そうだとしたらそれは神様のメッセージと言うことになるのでしょうか。それとは別に神さまに敵対する悪魔が神様を困らせるために私たちを一方的に攻撃してきているのでしょうか。死んでみなければ分からないことですが、自分なりに解釈していかざるを得ません。そうすると今の人生を受け入れ、がんばって生きるしかありません。三本目の足を手にして頑張りましょう。

   「おお、祖国テバイに住む人びとよ、心して見よ、これぞオイディプス、
   かつては名だかき謎の解き手、権勢ならぶ者もなく、
   町びとこぞりてその幸運を、羨み仰ぎて見しものを、
   ああ、何たる悲運の荒波に、呑まれて滅びたまいしぞ。
   されば死すべき人の身は、はるかにかの最後の日の見きわめを待て。
   何んらの苦しみにもあわずして、この世のきわに至るまでは、
   何びとをも幸福とは呼ぶなかれ。」

 しかし苦しみのない人生などありえないでしょうし、その中にこそ宝物を探さなければなりませんね。