Drifting too far − 14
移ろいゆくものと絶対者

 「歌追い人」という映画をご存知でしょうか。私自身この映画が上映されたこと自体知りませんでした。ヤフーのオークションで音楽のCD を眺めていたときこの映画の中で取り上げられていた歌を集めたCDを見てしりました。 “O BRATHER”の時ともそうでした。いずれの映画もアメリカの古い音楽が随所に顔を出すものですが、特に「歌追い人」は音楽研究者が移民とともに持ち込まれたイギリスの音楽がアメリカ風にアレンジされアパラチアの山の中で歌い継がれてきている事実に気づきこれらを録音し、記録に残そうとする筋立てのようです。移民によりいろいろな音楽が持込まれ、相互に影響しあいながらカントリー、ブルーグラス、ブルースやジャズなどのジャンルが確立していきました。また地域によって曲名も変わり、詩の内容も全く変わってしまったものもあります。ウッディ・ガスリーは古い音楽の旋律に世相を風刺した詩をつけて歌っています。音楽にとどまらず人の行為は常に変化していきます。ある時代には正しかったことが誤りとなり、無視されていたことが脚光を浴びてくることもあります。E・H・カーは「歴史とは何か」の中で「事実」と「歴史的事実」を区別しています。一定の文脈の中で取り上げられることによって意味を持たされた事実を「歴史的事実」と呼んでいます。今まで埋もれていた事実が時代を経て誰かが歴史の表舞台に登場させれば単なる出来事から「歴史的事実」へと変容します。私たちが正しいと言っているものほど不確かなことはないのかもしれません。宗教もそうだと思います。旧約聖書の世界を見ても神の存在は目の前にいた人格を持った神から段々と人格を喪失し、表の世界から離れた世界に存在するものへと変化していっているように思えます。耶蘇教が成立すると三位一体の一角とされながらも更に背後に後退したのではないでしょうか。カトリックでは教会組織の向こうに神はいますし、プロテスタントでは教会も聖職者も関係なくキリストの十字架の背後に退いています。こうした状況をニーチェは「神は死んだ。なぜ真昼間にちょうちんを持って探すのか。」と言っています。学生時代にはこの流れの中から神の死の神学がアメリカで起こってきました。また南米では虐げられたものたちを支えるための神学の理論的再構成としてカトリックの司祭であったグティエレスを中心とした開放の神学が起こってきました。しかし今これらの神学はどうなったのでしょうか。解放の神学はバチカン、現教皇によって意図的に潰されてしまいましたが・・。絶対者として君臨する神も時代によってその存在する場所と存在する意味がかわってきて当然かもしれません。科学の進歩にともない合理的に説明できないものは排除されていくのもやむをえないのかもしれません。絶対的なものを意識することは大切ですが、こうした変化していくものにも注意することを忘れてはいけないと思います。

 最近、青来有一の小説に嵌ってしいます。長崎在住の作家で、長崎を舞台にした作品が多く見られます。長崎とキリスト教とは切り離せない関係にありますが彼が扱うのはオーソドックスなキリスト教ではなく隠れキリシタン的に土地に染み付いたものとして扱われています。原爆にしても同様です。彼が問題としているのは信仰でも原爆でもなくそれらは土地に染み付いたもの、土地の力というか、風土というか、生きることを通して何かしら感じざるを得ないものとして、そしてそれらが霞んでいく様子を通して意識に上らせようとしているのかもしれません。長崎は確かに変わった町です。中学2年の時、広島から長崎に移り住み10年ほどいましたが、広島とは違う何かを感じることが沢山ありました。旅行者としてでは感じられない何かなのですが、それは早くから外国に開かれ、外国人がたくさん住むことによってつくり出されたその土地のもつ力なのかもしれません。中華街に住む人たち、ロシア系の雰囲気を持った人、キリスト教信者など周りに沢山いますが、普段はそうしたことが意識に上ることはないのですが、その人達と何気なく話している内容からふとそれに気づくことがあります。クラスの友人が毎朝5時に起きるといっていました。当時は不思議に思っていましたが、今になって考えると朝の礼拝に参加するためだったのでしょう。土地に関係のない人間が増えることによってそうした風土も感じられなくなっていきますし、そうした変化すら気が付かないのが現状かもしれません。しかしこうした変化を敏感に感じ取ることを通じて絶対的なものを意識するということもあります。しかしそれがどのような存在なのかは人によって違います。私の場合、ただ私の後ろをただトボトボトと付いてくるだけの存在でしかないのですが、そうかといって無視するわけにもいかない存在なのです。何かしてもらえるわけではありませんが、離れることも出来ないし、ことあるごとに祈りをしないわけにもいきません。全知全能の絶対者としての存在ではないのですがそうした関係性が私にとって絶対者であり、信仰であるのかもしれません。