Drifting too far − 13
命−4

 先日、長崎市長選に立候補されていた伊藤前市長が暴漢に銃撃され亡くなられました。政治的な背景があったのかどうかは分かりませんが、志半ばで人生を終わらざるをなかったことは残念なことだと思います。長崎は広島と共に原爆によって無数の命が奪われました。核廃絶に向けて頑張られていた方ですから、その反対思想の持ち主によるテロであったのか、単なる市政への個人的な恨みから発した行為だったのか分かりませんが。理由如何によってはその意味合いも違ったものとなってくるかもしれません。E・H・カ−が「歴史とは何か」の中で事実と歴史的事実の違いを述べていますが、単なる事件として忘れられていくか、歴史の文脈の中で語られていくかの違いとして取り上げていたかと思います。

 歴史的事実としてたくさんの殉教・殉職が語られてきています。たまたま伊藤前市長が銃撃された場所は江戸幕府がキリシタン弾圧の象徴としていたといってもよい処刑場のあった西坂の丘の麓でした。今、日本のカトリック教会は、江戸時代に殉教したペトロ岐部と187人の殉教者を「福者」にする運動を進めており、今年中には列福される予定になっています。殉教された方々を福者や聖人としてお祭りすることは別に悪いことではないかもしれません。マザ−・テレサも列福されていますが、一生をそれに捧げたという行為に対しての評価であるから納得もいきます。しかし、殉教者たちを同列に捉えることには少々抵抗があります。「棄教すれば助ける。」といわれているわけですから、うそも方便と考えてはいけないのか。遠藤周作の「沈黙」の主人公のように心の中に信仰の火種がわずかにでも残っていれば何度転んでもいいのではないかと思います。信仰が強ければ強いほど死ぬことも恐れず、教えに殉じるのも当然のことと考えてしまいます。イスラムの自爆テロを敢行している人々も信仰に燃え、来世での天国を心に思い浮かべて殉教しているのでしょう。住む世界が違えばテロリストになったり、聖人になったり・・。平たくいえば権力を握っている側にいるか居ないかで評価が変わってしまいます。イエスも当時の社会では、政治的には、ユダヤのナショナリストであり、支配者であるロ−マ側から見れば反ロ−マ活動の戦士だったでしょうし、宗教的には体制内の改革派だったのでしょう。いつの間にか、新興宗教の親玉に祭り上げられ、世界的な宗教の教祖に納まってしまい、アッシジのフランシスコともども「それは違う。」といっているかもしれません。

 私のような中途半端な信者は殉教をどのように考えればよいのか良く分かりません。殉教その部分だけを見ればその信仰の強さには心服します。しかし、カトリックは自殺を禁じています。信仰のためには生きることよりも死を選ぶ殉教は消極的な自殺ではないかと考えてしまいます。福者や聖人としてお祭りすることは殉教を賛美しているわけではなく、その行為の良し悪しを問わずそうせざるを得なかったその痛みに共感する結果としての行為ととれば理解は出来なくもありません。殉教それ自体が賛美されてはいけないと思います。私自身殉教という恐ろしいことが出来るだけの信仰も勇気もありませんので真っ先に転んでしまうのは確かです。そういう意気地なしの延長線上で終末期の苦しさ、不安さから逃れるため、終末期医療に対して延命治療はすべきではない、尊厳死も必要ではないかと考えてきているのではないかと感じるようになりました。苦しみを取り除いて人間らしく死んでいくことはカッコいいかもしれません。医療費の削減といった意味からも正しいことかもしれません。しかし、私が指導していただいた神父様は、「意識がなくなっても、パイプに繋がれて生きられるのならば可能な限り生き続けたい、神様からもらった命をとことん全うしたい。」と話されていました。若いころから生死の間を何度も行ったりきたりしてこられた神父様の言葉をそのときは考え方の違いぐらいにしか感じることはありませんでしたが、今、テロや殉教を云々する前に「命とはなにか」もう一度考え直しなさいよと響いてきます。

 ジム・クロ−チが「タイム・イン・ア・ボトル」で歌ったように「ビンの中に時間を詰めることが出来るなら、それはあなたと過ごした日々」そうですよね、死んだあとのことを考えて生きても仕方が無いんですよね。耶蘇坊主も、「明日何を食べよう、何を着ようとなぜ思い煩うのか。明日の日は明日に任せればよい。」といっていますから、今を精一杯生きなければならない。そうすれば結果として天国にいける人も出てくるということでしょう。また福音書には、食い詰めて帰還した放蕩息子を喜び迎えるとありますが、一神教の世界のことですから額に十字架の印がないとダメですから消えないように頑張りましょう。

えくれしあ50号 h19. 5