Drifting too far − 11
命−3

 去年は、何かしらあっという間に過ぎてしまいました。仕事がそれなりにいろいろ在ったからというか、何かに追いかけられているような感覚のせいなのか分かりませんが、あまりにも早かったとしか言いようがありません。昨年の暮れの最後の二日間で自宅の掃除といっても台所周りと本などの整理をしただけなのですが、ガスレンジの周りが油で茶色く変色していたのを何かしらよごれているなぁとの感じから、非常にすがすがしい場所に変わりました。常に掃除や整理をしていればいいのにと思いながら何もしない怠惰さが問題なのですが、今回は、全てのものを整理しなければいけないとの気持ちが沸き起こってきました。まず、本を処分することとやきものの類を処分することまた買うのを止めることになるのでしょう。これらを残されたら子供たちが嫌になるだろうと思います。趣味が合えば問題ないのでしょうがそうはいきませんし・・。

 今日は、元旦のミサに行き、教会に置いてあった「心のともしび」というリ−フレットをもらって帰ると、反省というテ−マが与えられていたのか、数名の投稿者がこれを中心に書かれていました。ずっと自分が感じていることが随所に触れてあり、再度、掃除を通じて感じたことを認識することになりました。コラムニストの方は、自己改革を生涯にわたって自分に提唱し続けたいと提唱され、最後に「確かに未来はある。あなたの希望が立たれることはない。」(箴言23・18)を引用されていました。また、神父さまは、ラジオの子供の電話相談であった質問、「ボクは今、どうして此処にいるの」という単純ながら人間にとって避けて通ることの出来ない問題として説明され、最後に、「無花果の葉が出始めるのを見ると、人は夏がすでに近い事を知る。その事を見たならば、神の国が近づいているのだと悟りなさい。」(ルカ21・29〜31)との言葉を置かれていました。

 確かにそうですね。過ぎた事に拘泥していても何も始まりません。これからなにをすればいいのか、そのためには自己改革をしていかなければならないということでしょう。しかし、自己改革というと難しそうな話ですが、アントニー・デ・メロ神父様が言っているように「私の態度のほか変わったものは何もなかった。それだからこそ、すべてが変わったのだ。」というように心の持ち方を少し変えれば自分のかかわる全てのものが全く様変わりするとは思いますが、なかなか難しいですね。しかし、充実した人生を送ろうとすれば必要なことといえます。だからこそ「用心しておれ。さもなければ、あなたたちの心が酒宴や酩酊や生活の思い煩いで鈍重になり、かの日があなたたちに突如として臨まないとも限らない、それもあたかも罠のように。それは、全地の表に住むすべての者に襲来するからだ。」(ルカ21・34〜35)と耶蘇坊主は言っているのでしょう。いつ死神が目の前に現れてもいいように準備しておかなければなりません。鎌を持った不気味な死神ではなく、伊坂幸太郎が「死神の精度」で描いているような人間くさい、わたしの場合は、お酒とやきものの話が出来るような死神を送ってもらいたいものですね。年の終わりに神亀ひこ孫の酒造りの姿勢と旨さを教えてくれたのは誰?わたしのダボハゼ精神ですか・・?

えくれしあ46号 h19. 1