Drifting too far − 10
命−2

 カトリック教会では、第2バチカン公会議(1962-1965)以降、エキュメニズム運動が盛んになってきています。そうした活動の一環としてカトリック、聖公会、チベット仏教僧など他宗教との合同で11月1日(水)18時から「広島国際平和会議2006」に参加のため来広されたノ−ベル平和賞受賞者であるツツ名誉大主教とベティ・ウイリアムズ氏を迎えて広島の世界平和記念聖堂で、「平和の祈り」が行われました。

 ツツ名誉大主教は南アフリカのアパルトヘイトの問題で、またベティ・ウイリアムズ氏はアイルランドのカトリックとプロテスタントの衝突で流されたおびただしい血を目の当たりにされ平和的な解決へと尽力されてこられました。そうした紛争の悲しさ・むなしさを肌身で感じておられると思います。当日配布されたパンフレットの表紙に掲げられた「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ第26章52節)との言葉、また、この会の中で朗読された「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11・6-8)もそうした背景またその第一線で働かれた方々を前にすると大きな重みを持った言葉として、平和ボケした私の心にも強く訴えかけてきます。しかし、一時的な感傷ではなく、心の中に強い意識として根ざした何かがなければ「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土が薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないため枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった ほかの種はよい地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(マタイ13・3-8)の言葉通り、すぐに日に焼かれてしまったり、自分に都合のいいように取捨選択したりで頭の中にも、心の中にも残らないのが現実です。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」の言葉も、聖堂の中ではよく分かったし、この文章を書いている間はそれなりに思いが持続していますが、書き終わった瞬間から日に焼かれてしまうでしょう。頭の中で理解することは簡単ですが、心の中に落とし込むことは本当に難しい。マザ−・テレサのように身近な問題に飛び込めばいいのでしょうが、それだけの勇気もないし、偽善行為ではないのかとの思いも浮かんでくるし、人目も気になってしまいます。頭の中での作業で済ませてしまっていますので、そのようなことをしなければとの気持ちがある訳ではないといわざるを得ません。

 こうした自分勝手な思いは私一人のことでもないよう思います。前回の臓器移植や代理出産の問題も自分勝手な思いといってしまうと問題があるのかなぁと思いますが、家の中で飼うペットの問題などと同じように考えることが出来るのではないかといえます。広島ドック・パ−クの問題にしてもただ規模が大きいから問題になったのかもしれません。人間が飼いやすいように品種改良された結果奇形として生まれ闇の中に葬り去られる命も少なくないともいいますし、大きくなりすぎたり、引越しのために捨てられたり、命を抹消されたりするペットも沢山います。また、子供の虐待・子殺しも最近頻繁に報道されています。この問題も、臓器移植にしても代理出産にしても根っこはペットを飼うのと同じような感覚で命を捉えているからなのかといったら怒られてしまいますかねぇ。

 これらの問題は人間が自然に介入して生態系を含めて自然環境を破壊していることを意味しています。化石燃料を使うことによる地球温暖化等の問題と同列に考えられるといえます。古生物学者のマイケル・ボウルターは「人類は滅亡する―化石が明かす残された時間」で過去5回の生物絶滅があったが、それは地球規模での環境変化によるものと地球外部の隕石によるものであったが、哺乳類が環境をみずからの手で変えるまでに進化してしまったため劇的なスピ-ドで絶滅の時期を早めていると警鐘を鳴らしています。本来であれば8億年後の予定がどの程度早まるのか・・。地質学的には瞬きする程度の時間かもしれませんがわたし達にとっては、はるかかなたのことですが、猿の惑星のような結果もおこりえますので、明日のことかも分かりません。

えくれしあ44号 h18. 11