Drifting too far − 1

 昨年は、26日の仕事でひと段落し、ホットした翌日から、体調を崩し、何もできない年末年始となりました。12月始にエミル−・ハリスの「Angel Band」というC&Wのセ−クレッドソングを集めたCDをヤフオクで落とし、何かしら繰り返し繰り返し聴いています。中でも二つの歌が特に心に響いてきます。一つは、「Angel Band」であり、あと一つは「Drifting too far」です。ブル−グラスで聴きなれてきた歌ですが、エミル−・ハリスの独特の節回しをもつカントリ−調の歌は切々と心にしみ込んできます。

 「私の人生もあと少し、天使たちよ、私の周りに来て、その白い翼で私を包み、天国に連れて行ってください。」そうなれば良いのですが・・・。まだまだそこまで私は信仰があるわけでもないので、「お前は嵐に飲み込まれ、底知れない危険な深みに沈んでいこうとしている。そう、岸辺からはるか彼方を漂っている。救われる道は慈悲に縋るほかにない。イエスよ、ここに来てあいつにあなたの道を示してください。」そう、私はまだどこか訳の分からないところを漂っています。死を迎えるまで漂い続けるのでしょうが、最後の日には、ミシシッピ−・ジョン・ハ−トのように「主よ、主よ、私を思い出してください。」と歌いたいものです。まだ間に合ううちに、漂っている状況を書き連ねてみたいと思い、投稿させていただくことにしました。

 天主教を宗旨とし耶蘇坊主の傘の中に入っているのでこの辺りのことから始めます。神がいるのかと問われればなんら迷うことなく「いる」と答えます。しかし、目に見えるわけでもないし、信じたからといってなにかしてくれるものでもないし、説明できないなにかなのだといえます。「では、なぜ神が「いる」と信じているのか。」と聴かれれば、ある経験を通して感じたとしか言いようがありません。私の子供が小さい頃のこのことでいろいろ悩み事が耐えませんでした。幼稚園に送った帰り道、橋の上で、「今日何を食べよう。何を着ようとなぜ思い煩うのか。今日の苦労は今日一日で十分だ。明日の苦労は明日に任せればよい。」との言葉が浮かんできました。聖書の言葉ですが、今まで気にも留めたことも無い言葉でした。「イエスはテロリスト」としての立場からしか聖書を読んだことがないのでこんな言葉は目にも入らなかったというのが現実でした。確かに。「いくら心配しても何事も解決しない。今、なにをしなければならないのか。心配する時間があったら、それをすればいいじゃないか。」と気づき、スッ−と楽になりました。この言葉がフッと頭の中を横切った瞬間に、神は「いる」と確信しました。こうした経験はこれから10数年後カトリックの洗礼を受けようと思ったときにもありました。少しは信仰の立場から聖書を勉強したいと思い、教会に週1回勉強に通っていたときです。1年以上たってからだったと思いますが、神父様の部屋に行く前に、ロビ−で眺めていた「心のともしび」の中に何時までも洗礼を受けない学生の話が出ていました。自分自身そろそろ洗礼を受けなければならないかと考えていたときでしたので、今日は洗礼の話をしなければいけないと思いながら、神父様の部屋に入り、真っ先に言われたことが「洗礼をどうしますか。」という言葉でした。自分の思い、雑誌、神父様の言葉、と三つが重なりました。当然、「受けます。」と答え、部屋に入る前のことを話しましたら、「受けないといったら怒ろうと思っていた。」といわれました。前のときと同じで、なにかの働きを感じざるを得ません。私にとって、神とはこうしたなにかしら分からない働きまたは摂理を神と理解しています。それは悪魔だといわれればそうかもしれませんし、それでも何の問題も無いと思います。

 しかし、私の場合、「神+洗礼=信仰」ではなく「神+洗礼≠信仰」との計算式なので困っています。

えくれしあ34号 h18.1