本 の 紹 介


キリスト教問答
内村鑑三 著 講談社学術文庫 900円



 宗教にはそれぞれ独特の用語や概念があり、その宗教の信仰や基礎的な知識がなければそれらが何を意味しているかは分かりにくいところがあります。たとえそうしたものがあったとしても十分に理解しているともいえないのが現状かもしれません。カトリックでは洗礼を受ける前、「公教要理」というQ&A本があり、それに基づいて勉強していましたが、今はそうではなく神父様方が自由にテキストを選んでおられます。そうした中で、私の就いた神父様は、「公教要理」に準じた本しか使用されませんでした。そうした話を荒唐無稽な話と考えれば全く面白くもない話ですが、受け入れればそれなりに面白いものですし、カトリックの概略はよく理解できるといえます。内村鑑三のこの本も同じようなQ&Aの体裁をとっており、キリスト教の強い信仰と既成のキリスト教に対する批判精神に充ち溢れた厳しい発言は非常には興味を惹かれます。当然無教会主義という立場を築き上げた人物ですからそうした立場から当時のキリスト教会に対する批判を聞くとき「改めて信仰とは何か」を問い詰められている思いがします。組織ができれば当然組織を守るための論理が働いてきます。当然それは本来あるべき姿勢を否定せざるを得ず、宗教の世界でも組織の論理と信仰の論理の対立とならざるを得ません。南米から発展した解放の神学も同じ問題を意識していたといえますし、今でも低いところから聖書を読み直そうとする姿勢にも通ずるのではないでしょうか。こうしたことについて、「キリストありて聖書あるなり、聖書ありてキリストあるにあらず。キリストにして実在し給わざらんか、聖書の繙読百万回に達するも我らは彼を現実する能わざるべし、キリストに想像物にあらず、実在者なり、キリストは聖書を離れてもなお存在し給う者なり、我らは聖書を貴むのあまり、活ける救い主を古き文字のなかに発見せんと計るべからざるなり。」と述べています。
 キリスト教では、この機関誌の題名「えくれしあ」という言葉を教会として使用しています。この機関誌では「集いの場」ととらえていますし、内村鑑三は、「キリスト教会は、キリストによりて精霊をもって新たに生まれたる者の生活的団体であります。ゆえにこれは霊的団体でありまして会堂とか、会則とか制度とかいうような形体をもってあらわさるべきものではありません。」ととらえています。日本には日本的なキリスト教がまた聖書の読み方があってもいいでしょうがどのような歯止めを自覚するかが大きな問題といえます。この本は、言葉が古い点で読みづらいところはあっても楽しめる本だと思います。