本 の 紹 介


人はかならず、やり直せる  進藤達也著  中経出版  1,300円



 人の人生を大きく転回させる契機はいろいろ報告されています。宗教改革の立役者ルターは激しい雷雨の中で落雷による死の恐怖から法律家から修道士へと進路を変更し、また善行によっては救われず信仰によってのみ救済が得られるとの啓示を得て大きく舵をきったといわれています。こうした経験は多かれ少なかれ信仰の世界に飛び込んだ人にはあるのだといえます。しかしそうした啓示を受ける前提条件は生きるということについて真剣に考えまた思い悩んだ結果、自分のアンテナに信号をキャッチし、自分のものとする感受性が無ければ出来ないことでしょう。刺青を入れた牧師さんの集団ミッション・バラバの面々もそうでしょうし、この著者も同じで、「ことば」に載せたエゼキエル書第33章第11章の言葉が引き金となったといっています。彼らのようになぜ極端から極端に振れることができるのか不思議です。
 著者はヤクザとクリスチャンに共通する点として次の点をあげています。@神様の言うことは絶対であるのと同様、やくざにとって親分の言葉は絶対であり、いずれも絶対的存在の下に生活していること。Aけんかの相手を徹底的に打ちのめすやくざと自分の罪を悔い改め湧き上がる罪の思いを徹底的に打ち砕く姿勢をとるクリスチャン。B礼儀正しくする、受けた恩には恩で返すこと。ヤクザの世界は義理を果たすことであり、クリスチャンでは見返りを求めない一方的な愛の好意。耳の痛い話ですが、確かにこうしたことが生活の基盤に持っておく必要があり、その思いを新たにするためには、こうした生き様に触れ自分を見直す必要があるのではないでしょうか。
 ミッション・バラバの面々に対して「胡散臭い連中だな。やくざで食いつぶし、今度は牧師のふりをして飯を食っているんだろう・・・」といっている部分は、私自身も、著者に対して、また自分に対して感じている思いで、ふらふらした生き方はダメ、信念を持った生き方をしなければダメと戒める言葉として理解する必要があるのでしょう。また冤罪で刑務所に入ったボクサーだったルービン・カーターの言葉、「自分を投獄した人たちを憎まなかったわけではないけど、今は全然憎んでいない」「憎しみは自分を弱らせることを僕は知ったんだ」の引用は恨み言ばかりが頭の中を駆け回っているのに外に対しては猫を被っている自分への警告の言葉で、今一度襟を正すことをしなければならないとの思いを新たにさせられました。