本 の 紹 介

「聖書と歎異抄」
本田哲郎×五木寛之 対談  東京書籍 1,300円

 この対談は意外な感じがしないでもありませんが、本田神父の釜ヶ崎での活動また五木先生の朝鮮からの引き上げ体験を通じて人間の救いといった面から聖書と歎異抄の基本的な立場には共通するもの、お互いに理解しあえるものがあることが分かります。二人の言葉がこの本の内容のすべてを語っています。
 「暗夜の灯として 対話のまえに」にで、五木先生は「キリスト教と仏教のちがいを、「愛」と「慈悲」という観点から説く人は少なくない。しかし、本田さんの『聖書』の読み方はそうではない。キリスト教の思想の中には、深い心の痛み、はらわたに達するような悲しみもあるのだ。/顔をあげて天を見あげる前向きな姿勢とともに、地にうなだれて涙する悲嘆もある。私が本田さんのことばに心を揺さぶられたのは、そんな弱い人間を底辺から起ちあがらせようとする静かな決意に触れたからだった。/私が親鸞という人に惹かれたのも、彼が常に底辺の人間に視線を向け続けていたからだった。ここでいう底辺とは、ただ暮らし向きのことだけではない。おのれの抱える「悪」の深淵に戦慄し、どこまでも煩悩から逃れることのできない凡夫として、自分をもっとも低い場所におく人びとのことである。/そこには「信」という一点において交錯するものがある。それは悲を抱いた人びとへの強い視線だ。/弱き者ではない。弱く(、、)された(、、、)人びとである。悪しき者ではない。悪人(、、)と(、)された(、、、)人びとである。両者はともに、本田さんの表現を借りるなら、『小さくされた人々』である。
 「対話を終えて 他力と福音」で本田神父は、「五木寛之さんが大切にしておられる「他力」とは何かが、すこし見えてきたように思う。ひとまかせ、成り行きまかせということではないとは、漠然とながら承知していた。お話を謹んで聞いているうちに、ともに歩んでくださる阿弥陀の力に信頼してあゆみを起こすということだと、わたしは納得した。『聖書』の「ビスティス」(信頼してあゆみを起こす=信仰)に限りなく近いものである。」と、また悪人正機説については、次の言葉を聖書から引用されています。「丈夫な人には医者はいらないが、具合の悪い人には、必要なのだ。じつに、わたしが来たのは、「正統な人」を招くためではなく、道をふみはずしたもの(罪びと)を招くためである。」(マルコ2章17節)