本 の 紹 介

「沈黙―サイレンス―」 マーティン・スコセッシ監督による映画
「沈黙」 遠藤周作著

 先日「沈黙―サイレンス―」を見に行きました。主人公は宣教師ロドリゴでしょうが、わたしにとってはキチジロウが主人公に思えて仕方がありません。キチジロウのように「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵ば俺が悦んで踏んだとでも思っととか。踏んだこの足は痛か。痛かよォ。俺を弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法というもんじゃい。」に対して、そんなもの単なる偶像でしかなか。踏めばよか。神は居るからそれでよかと。」と言いたくなります。
 ほぼ3時間の映画で長さも感じないまま見ることが出来ました。しかし最後のシーンはすがすがしい思いを抱きながらも違和感を感じてしまいました。キリスト教が生活の一部として体に染みついているロドリゴにとって棄教したとしてもそれを拭い去ることは不可能でしょう。私たち日本人にも歴史の中で醸成されたものが染みついており、キリスト教に帰依したとても根っこの部分では意識するしないにかかわらずそれとの調和を図りながら生活しているはずです。真面目に考える人はその葛藤を意識せざるを得ないと思います。ラストシ−ンはロドリゴが心の中では信仰を保っていたということになるでしょうが、殉教する人、転ぶ人、迫害する人また無関心な人全ての人に対して「それでよし。」との神からのメッセージではないでしょうか。この映画に出てくる人たちすべてが自分の意志に従って行動をしています。信念を持った行動こそが信仰であり祈りでしょう。最後のシ−ンをどうとらえるか監督の突きつけた踏み絵ではないでしょうか。