本 の 紹 介

【新訳】正法眼蔵
道元 著 ひろさちや編訳 PHP 950円


 正法眼蔵の名前は日本史で知った程度のものでこれまで関心もないままでした。たまたまネルケ無方というドイツ人のお坊さんが書いた「日本人に「宗教」は要らない」を読み、その中に正法眼蔵の話がいろいろ出てきたことから関心を持ったのがこの本を読む切っ掛けでした。これまで臨済宗の公案を中心とした禅の本を読んでいました。訳の分からない公案の本を読むのも面白いのですが、禅を組む訳でもないので当然のこと頭の中で信仰について考えていくことになります。そうした流れから曹洞宗の公案の無い只管打座には今一つ関心が持てなかったのですが、その意味するところは生活のすべての局面を禅の生き方としてとらえることを意味していることらしいと分かり、興味を感じました。禅の目指すところは私たちの中にある仏性に対する悟りですが、「鰯の頭も神様」と思っている人間にとって、また普通の日本人である私の身の丈に合ったキリスト教を漠然と求めている私にとっては公案を中心にすると頭の体操に終わる可能性が高くなってしまいます。この本の現代語訳は分かりやすい表現が取られており、すんなりと受け入れられるものでした。生死の巻に次の言葉がありました。「悟りを得るに簡単な方法がある。もろもろの悪事をせず、生死に執着することなく、全ての衆生に慈悲深く、上を敬い、下をあわれみ、万事に対して願う心を持たず、心にあれこれ思わず、憂えることもない、それを悟りと名づける。そして、それ以外に悟りをもとめてはならない。」聖書では「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)でしょうか。しかし「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根が無いため枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。」(マタイ13・5-7)は私によく当て嵌まる言葉なのでどうすれば抜け出ることが出来るのか・・ため息ばかりです。
 こなれた訳と適切な解説があるので新年度に当たって読んでみてください。