本 の 紹 介

教 誨 師
堀川惠子 著 講談社 1,700円


 私たちと宗教との関係は特別問題を抱えていないものにとってはきれいごとの世界の話で済むかもしれませんが、一旦大きな問題に巻き込まれたり、死に直面した人たちにとっては全く違ったものとして表れてきます。死を前にした無宗教の宗教学者岸本秀夫は必死に生きることを選びました。宗教も死の問題を扱うとしても中心となるのは今を必死に生きることだと思います。即今(いま)、此処(ここ)、自己(じこ)の己事究明が宗教の本質ではないでしょうか。この本を教誨師の仕事や死刑囚とのかかわりとして見ていくのもいいでしょうが、必死に生きることを考えると言った視点から読んでいくのもいいのではないかと思います。
 この本は教誨師として長年活動してきた僧侶からの聞き書きを基に書かれています。主人公の師匠は私たちは雑念妄想の中で生きているが海や川で遊ぶことでそれらを忘れ去った空間を持つことが出来るが、死刑囚にはそれが出来ないためそうした空間を持たせるのが教誨師の仕事であると言っています。それを実感した例として、全ての死刑囚を集めた音楽会の席上で居眠りをし、その周りを4,5人の死刑囚が取り囲み笑っており、目を覚ますと「『ボンヤリしているとバラしますぞ! 』と笑って、私を揶揄かった。私も、自分ながら。おかしくなって、『すまぬすまぬ』と笑いこけた。」これによってお互いの立場の隔たりが空じてしまったと述べています。一段高いところから信仰の世界など綺麗ごとを語られても受け入れられることは無いでしょう。
 また、主人公の失敗談として次のような話があります。何か作業をしていると途中、「先生、あのタナカという大臣はとんでもない男ですね。いくら死刑囚だって、虫ケラを殺すんじゃあるまいし、次から次へ幾ら何でもやりすぎです」との言葉に、「ま、法務大臣もそれが仕事だからな、職務熱心なんだろうよ」と考えもなく口にすると、尋常ならざる口調で「私はいつ吊るされるか怖くて・・・」視線を向けると「白目ばかりが目立つ険しい眼差しが自分の方に突き刺さっている。」こうした経験を通して「相手は全身全霊でこっちの話を聞いているぞと、そのことを絶対に忘れたらいけんぞ・・」と若い教誨師に話すと言っています。死刑囚が今を必死に生きていることはこの本の中で感じ取ることもできますし、死刑囚が書いた本などでも同じことが感じられます。いざ自分を見るとそうした必死さを持って生きているのか大いに反省しなければいけないのですが・・。